ゴリねえ、お姫様抱っこが役に立つ。③
お姫様抱っこの研究なんて、正直、くだらないと思っていた。
まさか、その数か月後。
本当に役に立つ日が来るとは思わなかった。
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
理由はない。
強いて言うなら、会社のエレベーターに「点検中」の張り紙が貼ってあったことくらいだ。
そして、その予感は的中した。
会社の入口で、後輩が転んだ。
私より小柄な後輩だった。
「あ」
という声のあと、しゃがみこんだまま、しばらく立ち上がってこない。
足首を押さえている。
「大丈夫?」
「痛いです……立てないかも……」
会社は5階。
エレベーターは、さっきの張り紙どおり止まっている。
周りに人が集まってくる。
「肩貸そうか」
「救急車呼ぶ?」
「今日は帰る?」
みんな心配している。
でも、誰も決められない。
会話だけが、階段の下でぐるぐる回っている。
私は、迷わなかった。
「じゃあ、抱っこで。」
「え?」
周りが固まる。
私は、かつてお姫様抱っこの実験台になった同僚に、自分のリュックと後輩の荷物を押しつけた。
「持ってて。」
「え、いいけど……」
彼は快く引き受けてくれた。
後輩には、いつものセリフを言う。
「首、回して。」
背後で誰かが、小さく、
「出た」
とつぶやいた。
重心。
膝。
腕。
研究どおりに構えて、
ひょい。
持ち上がった。
まさか、あの給湯室帰りの思いつきが、こんな形で仕事をするとは。
私はそのまま階段を上り始めた。
一段。
また一段。
「大丈夫?」
「酔ってない?」
軽く声をかけながら、進んでいく。
後輩は最初こそ、
「すみません、重いですよね」
と恐縮していた。
でも、3階を過ぎたあたりから、諦めたように大人しくなった。
私の意識は、完全に後輩に向いていた。
だから、背後の声なんて、ほとんど聞いていなかった。
「ねえ、ちょっと、これ、何入ってるの?」
リュックを託した同僚である。
声に、若干の恨みがこもっている。
「重すぎない? これ。」
答えない。
答えないが、心当たりはある。
心当たりしかない。
そういえば今日。
ただランチに行くだけなのに、私はリュックに2.5リットル容量の水筒をぶちこんでいた。
水筒なんて、いらないはずなのだ。
それでも、リュックが軽いと、なんとなく背中がすうすうして落ち着かない。
自分の安寧のためだけに詰め込んだ、完全に個人的な事情である。
「ちょっと、聞いてる?」
聞いていない。
というか、聞いている余裕がない。
私は今、それどころではない。
後輩の足首を救助中なのである。
そして、5階に到着した。
後輩をそっと下ろす。
周りから、拍手とも安堵ともつかない空気が漏れた。
「本当に運んだ……。」
「ゴリねえ、まじで持ち上がるんだ……。」
私は特に何も言わなかった。
私にとっては、もう驚くことではない。
研究の成果が出ただけである。
後輩は何度も頭を下げてくれた。
「本当にありがとうございました。」
「おかげで病院にすぐ行けます。」
その言葉に、柄にもなく、ちょっとじーんとした。
——のだが。
「ちょっと、これ!」
さっきの同僚が、リュックを両手で抱えたまま戻ってきた。
顔が、ちょっと怒っている。
「重っ!」
「何入ってるんですか、これ!」
リュックを開ける。
中から出てきたのは、
2.5リットル容量の保冷水筒。
高校生の頃からずっと使っている、私の夏の相棒である。
「これ持って5階まで登らせたんですか!?」
「先に言ってよ!」
すごく怒られた。
本当に、すごく怒られた。
汗だくの同僚を前に、私はとりあえず、
「ありがとう」
とだけ言った。
でも、まあ、いい。
後輩が無事なら、それでいい。
深夜の編集部で始まった、お姫様抱っこの研究。
あのときは、みんなただ笑っていただけだった。
でも人生には、ごくまれに、
くだらないことが役に立つ日がある。
あの日の研究は、たった一度だけ、本当に役に立った。
そして水筒については、いまだに謝っていない。
さすがに悪いとは思っている。
今度、ランチくらいは奢ろうと思う。
ただし。
水筒は、次も持っていく。
