ゴリねえ、お姫様抱っこを研究する。①
深夜の編集プロダクション。
締切が近づくと、人は少しずつ正気を失う。
昨日も終電だった。今日もたぶん終電だ。
その日、私たちは少女漫画のラフ原稿を見ていた。ヒロインを軽々と抱き上げるヒーロー。王道の、お姫様抱っこ。
「……ねえ、これ実際できるもんなのかな?」
誰かが、ぽつりと言った。
普通なら「漫画だからね」で終わる話である。
でも、疲れ切った編集部というのは、たまに謎の本気を出す。
「重心じゃない?」
「腕の位置かな。」
「いや、膝の使い方かも。」
なぜか全員、真顔で検証を始めた。
すると、同期の男性社員が立ち上がった。身長175センチ、細身のもやしっ子。
「やってみる?」
「いいよ。」
私は当然、抱っこされる側のつもりでいた。
私は158センチである。ただし会社では、160センチということになっている。私が勝手にそう言っているだけだ。
理由は特にない。強いて言うなら、大きく見られたかった。それだけだ。小学生の男子が身長を聞かれて反射的に3センチ盛るのと、たぶん同じ心理である。
「違う違う。」
「え?」
「そっちじゃない。抱っこする方。」
「……私?」
「うん。」
即答だった。迷いも遠慮も、一切なかった。
175センチの同期は、もう両腕をこちらへ伸ばして待っている。完全に、抱っこ待ちである。
「あなた、175あるよね?」
「そうだけど?」
この「そうだけど?」に、私は一番腹が立った。
まるで「今日、晴れだけど?」くらいの温度感だった。
ここまで来ると、私も引き下がれない。ラフをちらっと見る。
「あ、離すんじゃなくて、引き寄せるのか。重心か。」
「いくよ。」
「ういっす。」
同期の背中と膝裏に腕を回す。
そして、ひょい。
持ち上がった。
あっさりと。
「……え?」
一番驚いたのは、抱っこされている本人だった。
足がきれいに床から浮いている。
キーボードの音が止まり、編集部が静まり返った。持ち上げている私自身も、内心びっくりしていた。
「重くないの?」
「うん、全然。重心合わせたら、いける。」
できるには、できる。
だが、安定感はいまいちだった。
「首、回して。」
そう言うと、同僚は迷いなく私の首に腕を回した。
なるほど。重心を分散させると、こんなにも安定感が変わるのか。
密着度は一気に上がるが、彼はそれに何の問題もないらしい。
少女漫画の検証結果。
お姫様抱っこは、意外とできる。
……いや、問題はそこじゃない。
誰かが、小さくつぶやいた。
「……ゴリねえ、すごいな。」
本来なら、その一言で終わるはずだった。
でも、編集部という場所は、一度くだらないことに火がつくと止まらない。
「ちょっと私も。」
一人が立ち上がった。
その一言をきっかけに、お姫様抱っこの行列ができる。
深夜二時。
締切前の編集部は、もう誰にも止められなかった。
そして最後には、専務まで並ぶ。
※次回、編集部に「抱っこ待ち」の行列ができます。最後尾は専務です。
