浮気自慢の後輩を叱ったら、佐藤さんが元球児だと知った話。
私の隣の席には、フットサル仲間がよく遊びに来る同僚がいる。
その日も、印刷会社の若手営業さんが、油を売りに来ていた。
佐藤さん(仮名、ほんのり好きな人)と同じ会社の、新卒2年目の後輩にあたる人らしい。
爽やかな見た目で、名刺交換のときの声も、やたら通っていた記憶がある。
私には関係のない話なので、普通に仕事をしていた。
見積書とにらめっこしながら、電卓を叩く。
ただ、隣なので、会話は勝手に耳に入ってくる。
オフィスの音響設計上、こればかりは仕方がない。
どうやら週末のフットサル、人員が足りないらしい。
「誰々は来れる?」
「あの人はどうかな」
と、品定めが続く。
就活の面接みたいな真剣さで、フットサルメンバーの選定会議が繰り広げられている。
まったく興味のない会話だったのだが、
「佐藤さんは?」
の一言で、私の耳は勝手にダンボになった。
電卓を叩く指が、ぴたりと止まる。
「あの人、高校球児だからなー。フットサル、あんまり興味ないんだよなー」
高校球児。
佐藤さんが、高校球児。
とてつもなく有益な情報を、無料で、しかも本人不在のまま手に入れてしまった。
心の中で「ラッキー」というより、「宝くじ」に近い感覚があった。
グラウンドで白球を追いかける佐藤さんの姿を勝手に脳内再生しながら、私は見積書を放置し、静かにキーボードを叩き続けるふりをした。
頭の中では、すでに甲子園の入場行進曲が鳴っている。
いい情報を手に入れた。
今日はいい日だ。
そう思っていた。
事件は、そのすぐあとに起きた。
会話が一区切りついたところで、後輩くんが急に得意げになった。
声のトーンが一段上がるのが、隣の席からでもわかる。
「実は俺、彼女いるんすけど、他にもキープしてる子が2人いて」
悪びれる様子は、まったくない。
むしろ武勇伝のつもりらしく、同僚に向かって嬉しそうに語り始めた。
誰の許可を得たわけでもないのに、勝手に「モテ講座」の講師席に座っているような雰囲気だった。
女性の気持ちとか、尊厳とか、そういうものが一切登場しない話し方だった。
こいつの都合だけで、3人の人間が消費されている。
しかも、それを社内の共用スペースで、他人事のように笑顔で報告している。
そう思った瞬間、頭の奥で何かが、ぷつっと切れた。
「調子にのんなよ、小僧が」
心の中で言ったつもりだった。
のだが。
気づいたときには、独り言にしては大きすぎる声量で、その言葉が口から出ていた。
「え」
という顔で、後輩くんがこっちを見る。
隣の同僚も、営業スマイルを凍らせたまま固まっている。
ああ、まずい。
そう思ったが、もう独り言ということにするには声が大きすぎた。
引くに引けず、私は電卓を置いて、なるべく平静を装いながら続けた。
「彼女いて、キープが2人もいるって、それ自慢になると思う?」
後輩くんが、まだヘラヘラした顔のまま、
「いや、そんな大したことじゃ……」
と言いかけたので、そこにかぶせた。
「大したことじゃないなら、なおさら言う意味なくない? 3人分、誰かの気持ち使ってるってことだよ、それ」
自分でも、思ったより低い声が出たと思う。
怒っているというより、呆れているような、そういう声色だったと思う。
言い終えて、しん、とした空気の中で我に返った。
フロア中に届くほどではなかったが、少なくとも周囲の3、4人には聞こえていたはずだった。
終わった。
社会人として、いろんな意味で気まずいことになった。
そう覚悟した。
ところが。
近くにいた同僚も、たまたま通りかかった上司も、なぜか見て見ぬふりをしながら、口元だけ笑っていた。
上司にいたっては、コーヒーを片手に、聞こえなかったふりで自分のデスクに戻っていった。
ただ、去り際にほんの一瞬、私と目が合って、小さくうなずいた。
止める気配は、まるでない。
どうやら、社内の良心は私に託されたらしい。
後輩くんは、
「いや、はい、すみません……」
と気まずそうに愛想笑いを浮かべると、そそくさと帰り支度を始めて、逃げるように帰っていった。
あとで同僚に、
「いやー、よく言った」
「あれは正直、みんな思ってたと思うよ」
と言われた。
しかし、私自身は微妙な気持ちだった。
なんであそこで、口が動いちゃったかなあ、と。
あの温度のまま人に意見したのは、たぶん人生で二回目くらいだった。
浮気自慢の話には、心底腹が立った。
それは今も変わらない。
あの会社に行くことがあれば、しばらく後輩くんとは目を合わせられる自信もない。
ただ。
佐藤さんが元球児だという情報だけは、素直にありがたかった。
グラウンドで白球を追いかけていたであろう佐藤さんの姿を思い浮かべるだけで、その日の残業は、思ったよりすんなり乗り越えられた。
人はときに、他人の青春時代を燃料に生きていける生き物なのだと思う。
その日の戦績。
浮気自慢――低い声で正論、一撃。
後輩くん――愛想笑いで撤退。
同僚・上司――見て見ぬふりで傍観、実質共犯。
佐藤さんの新情報――元球児、獲得。
その日の残業――佐藤さんの妄想を燃料に完走。
なお、私はその日以降、
「高校球児だった佐藤さん」
という新しい設定を手に入れた。
浮気自慢の後輩には腹が立った。
でも結果として、私はひとつ、非常に有益な情報を手に入れた。
佐藤さんは、元球児だった。
