アウトドア未経験の女、オフィスの机下でキャンプデビューする。
アウトドアというものに、ものすごい憧れがある。
だが、憧れと経験値は、まったくの別物である。
私がこれまで経験したアウトドアといえば、屋外バーベキューが数回。
テントで一晩過ごしたことすらない。
キャンプ雑誌を眺めて、
「わかる〜」
と頷いたことはあるが、実際に焚き火を熾したことは一度もない。
私にとってのアウトドアとは、
「行ったことはないけど、たぶん似合うと思っている場所」
という、非常にふわっとした憧れの対象だった。
その点、隣の席の同僚は違った。
ソロキャンプに、ひとりでふらっと出かけていく。
正真正銘のアウトドア人間である。
休み時間になると近所のアウトドア用品店にふらっと消え、戻ってくると決まって何かを買っている。
給料日直後は特に危険で、財布のひもと一緒に、何か別の箍まで外れるらしい。
「これ、七通りの使い方ができるナイフなんだけど」
「これ、二分でお湯が沸くバーナーなんだけど」
見せられるたびに、私は道具の詳細をまったく理解しないまま、
「いいね!」
とだけ返していた。
心のこもっていない「いいね!」だったと思う。
ナイフの刃の枚数も、バーナーの火力も、私の脳内では等しく、
「なんかすごいやつ」
という、ひとつのフォルダに格納されていた。
今思えば、あれは相槌ではない。
もはや条件反射だった。
そんなある日。
同僚が新しいアイテムを買ってきた。
寝袋である。
コンパクトな袋にぎゅっと収まった携帯型のそれを、同僚は、
「徹夜のときに使うんだ」
と、なんでもないことのように言った。
その瞬間。
私の中の何かが、跳ねた。
寝袋。
なぜか無性に、そこへ強烈な憧れを感じてしまったのである。
ナイフにも。
バーナーにも。
テントにも。
一切心を動かされなかった私が、寝袋という単体アイテムにだけ、猛烈に心を持っていかれた。
なぜなのか、自分でも今もって分からない。
もしかすると、袋という完成された形に惹かれたのかもしれない。
丸くて、コンパクトで、抱きしめられるサイズのものに、私は昔から弱いのである。
「いいなあ」
「いいなあ、これ」
「いいなあ」
食い気味で連呼する私に、同僚はやや引き気味だった。
うっとうしかったのだと思う。
それでも、
「じゃあ次の徹夜のとき、家にあるやつ持ってきてやるよ」
と言ってくれた。
売られていたのは同情だったのか、根負けだったのか。
今となっては分からない。
ただ、私は素直に嬉しかった。
その日の帰り道、寝袋のことばかり考えていた気がする。
そして迎えた、次の残業日。
同僚は約束通り、寝袋を持ってきてくれた。
「自分が今使ってるやつの、ひとつ前のバージョン」
とのことだったが、そんな型落ち情報はどうでもよかった。
私のテンションは、すでに振り切れていた。
デスクに置かれた瞬間、思わず両手で受け取ってしまったくらいである。
私たちの仕事は、夜中の二時か三時に一度業務が落ち着き、そこから朝七時まで仮眠を取れることが多い。
その仮眠タイムに合わせて、同僚が言った。
「じゃあ、作法を教えてあげます」
作法。
徹夜寝袋には、作法があるらしい。
俄然、テンションが上がる。
茶道か何かのように、正座で寝袋の扱い方を教わるのだろうか。
そんなことまで考えた。
ところが。
まず、自分のデスク周りを箒で徹底的に掃除する。
次に、会社にある段ボールを敷いて、マットレス代わりにする。
以上。
拍子抜けするほどシンプルな作法だった。
しかし同僚は、これを一切の迷いなく、粛々とこなしていく。
箒さばきに一切の迷いがない。
もはや儀式めいた美しさすらあった。
二人分のデスク周りを掃除し、段ボールを敷き終えると、
「机の中に頭を突っ込むように、床に横たわって」
と指示された。
え。
一瞬思った。
だが、これが作法ならばと素直に従う。
そして寝転がった瞬間、私は悟った。
これが、思っていた百倍快適である。
上半身は机の下に完全に格納され、両隣は仕切りで遮られている。
まるでカプセルホテルだった。
しかも無料である。
下半身だけが寝袋に包まれてデスクの外にはみ出しているが、深夜のオフィスに人影などない。
誰も見ていない。
見られる心配のないカプセルホテルほど、快適なものはない。
私は興奮のあまり、隣で寝ようとしている同僚に、あれこれ話しかけた。
「これ、意外といいね」
「段ボールって思ったより痛くないね」
「なんか秘密基地みたいだね」
すると、
「もう寝るから」
一言で、ばっさり遮られた。
同僚はプロだった。
無駄口を叩かず、最短で眠りに落ちる技術まで持ち合わせていた。
私がひとりで興奮して喋り続けている間に、隣ではすでに寝息が聞こえ始めていた。
正直、こんなに興奮していて眠れるわけがないと思っていた。
だが、次の瞬間には意識がなかった。
寝袋、恐るべしである。
朝六時。
目が覚めた。
隣を見ると、同僚は微動だにせず眠っていた。
上半身は完全に机の中。
生存確認のため、こっそり足を蹴ってみた。
反応がない。
もう一度、少し強めに蹴ってみた。
やはり反応がない。
プロの眠りは深い。
身支度を整え、七時前に上司が出社してきても、同僚はまだ眠っていた。
「何、この子」
上司が私に尋ねてくる。
「さあ、なんなんでしょうね」
私はしれっと答えた。
自分も同じ寝袋作法で夜を明かしたことは、なんとなく黙っておいた。
墓場まで持っていくつもりだった秘密だった。
ところが。
当の同僚本人に、あっさり密告された。
その日のうちに発覚した。
裏切りというより、寝起きの正直さが招いた事故だったと思いたい。
そして数日後。
同僚は、あのとき私が使った寝袋を、そのまま譲ってくれた。
「もう使わないから、あげる」
かくして寝袋は、正式に私の徹夜必須アイテムとなった。
以来、残業の予感がする日は、こっそりデスクの下に寝袋をスタンバイさせるようになった。
アウトドアには一歩も近づいていない。
なのに、装備だけは着実に増えている。
私のアウトドアデビューは、まだ屋外を一歩も出ていない。
【本日の戦績】
寝袋、譲渡一個。
段ボールマットレス、初体験一回。
同僚への生存確認、足蹴り二回・反応なし。
上司への言い訳、「さあ」で通過一回。
密告犯、同僚本人。
アウトドア経験値、変化なし。
オフィス内キャンプ偏差値、大幅上昇。
