見出し画像

つけ麺800グラムにつられた女、禁断の恋を未然に防ぐ。

天気のいい土曜日の朝。

仕事は徹夜明けだった。

一緒に修羅場をくぐったのは、上司と隣の席の同僚。

上司は仕事が終わった瞬間、女神のような妻の待つ家へ、一目散に帰っていった。

速い。

もはや瞬間移動である。

徹夜明けとは思えない足取りで、後ろ姿からは「愛」というものがビュンビュン放出されていた。

うらやましいとか、そういう感情すら湧かないくらい、圧倒的な速さだった。

残された私と同僚は、抜け殻のような目で、その背中を見送った。

愛のある人生と、つけ麺のある人生。

今の私たちには、後者しかない。

そんな私たちを支えていたのは、昨日から決めていた、たったひとつの楽しみだった。

帰り道の途中駅にある、1,200円で800グラム食べられるという、伝説のつけ麺屋に寄ること。

正直、この徹夜業務を乗り切れたのは、あのつけ麺のおかげと言っても過言ではない。

さあ行こう、というところで、同僚のスマホにLINEが届いた。

編集者や印刷所など、仕事がらみの面子で組んでいるフットサルチームからだった。

今日は人数が足りないので、来られる人は来てほしいらしい。

「いいよ、私のことは気にしないで行きな」

そう言ったのだが、同僚は渋る。

「一時間だけ待ってくれたら、そのあと一緒につけ麺に行けるから」

無理だ。

私は忙しい。

帰ったら仮眠を取って、犬の散歩をして、祖母に頼まれた草むしりをして、漬けている梅干しの様子も見なければならない。

徹夜明けの土曜日というのは、意外とスケジュールが詰まっているのだ。

何なら、翌週に提出の書類仕事も少し残っている気がする。

忙しさで言えば、フットサルの助っ人より、よほど私のほうが人手不足である。

そう説明したのだが、

「それ、全部つけ麺のあとでいいから」

「800グラムを一人で完食しようとする自分を、見捨てないでほしい」

と、微妙に同情を誘ってくる。

見捨てないでほしいも何も、800グラムのつけ麺は、本来ひとりで挑むものではないのか。

仲間を欲しがるレベルの量ではないと思う。

しかし、そこを深く突っ込む気力は、もうなかった。

仕方ない。

フットサル場までついていくことになった。

せめてもの抵抗として、道すがら、

「一時間って言ったからな。一時間だからな。もう一回言うけど、一時間だからな」

と、三回念を押した。

観覧スタンドの端に座ろうとすると、見覚えのある顔があった。

時々一緒に仕事をする、デザイン事務所の女性だ。

軽く挨拶をして、少し離れた席に座る。

観覧スタンドには他にも数人、フットサル関係者らしき人がまばらに座っていた。

誰も特に応援するでもなく、それぞれスマホを眺めている。

緊張感ゼロの空間である。

フットサルというのは、こんなにも観客の集中力を試さない競技だったのか。

新しい発見だった。

天気がよすぎて、ぽかぽかしている。

特にやることもない。

徹夜明けの体には、眠気が容赦なく襲ってくる。

ボールがどっちのゴールに向かっているのかも、正直あまり気にしていなかった。

ぼんやり空を見ていると、隣に座る女性に、フットサルのユニフォームを着た男が話しかけまくっていた。

ナンパなのか、知り合いなのか、判断がつかない。

ただ、女性もまんざらではなさそうで、

「今度、飲みに行きましょう」

なんて声が聞こえてくる。

私には関係ない。

そう思って聞き流していた。

すると、女性がふいにこちらを向いた。

「このあと、どこか行くんですか?」

「はい。同僚とつけ麺を800グラム食べに行きます」

徹夜明けというのは、取り繕う気力すら残っていない。

聞かれたことに、ただ素直に答えるだけの生き物になる。

「800グラム?」

男がのけぞった。

物理的に体を反らせて驚くのを、生で見たのは初めてかもしれない。

女性は、

「そうなんですねー」

と、さらりとかわした。

しかし男は、

「それ、男でも食えないよ。そんなに食えんの?」

と、わりとぶしつけに聞いてくる。

「まあ、そうですね」

「うわ、ひくわー」

さらに追い打ちがきた。

「デブるよ、それ」

デブるよ、じゃない。

今からデブになりに行くところを、邪魔しないでほしい。

男が笑った。

その瞬間、女性の表情がわずかに曇った。

私も、

「ひくよなあ」

と、自分で思った。

そりゃそうだ。

誰だってひく。

私だって、初めて800グラムを見た日はひいた。

今はもう、ひかない体になっただけだ。

女性がフォローするように、

「たくさん食べる女性、人気ありますよ」

と言ってくれた。

しかし男は、

「いや、800グラムはない」

と、にべもない。

どうやらこの人は、今日ここで出会った女性より先に、私の食欲を全力で否定することに決めたらしい。

会って数分だが、もう、そういう人だと分かった。

そこへ、フットサルを終えた同僚が戻ってきた。

「お久しぶりです」

どうやら男と顔見知りだったらしい。

同僚は何気なく言った。

「お子さん、お元気ですか? このあいだ、奥さんとお子さんもいらしてましたよね」

その瞬間。

男の目が、明らかに泳いだ。

分かりやすすぎる。

むしろ、こちらが心配になるレベルの泳ぎっぷりだった。

隣にいた女性の表情が、すっと冷えていく。

何なら、気温が二度くらい下がった気がした。

このときばかりは、空気を読まずに思ったことをそのまま言う同僚の長所――短所とも言う――が、見事に功を奏した。

さっきまで私の食欲をディスっていた男が、あっという間に立場を失っていく。

観覧席のあちこちから、聞こえよがしのため息と、押し殺した笑いが漏れていた。

目撃者は、思いのほか多かったらしい。

思いのほか爽快だった。

ざまあみろ、とまでは言わない。

……ちょっとだけ思った。

男は、

「あ、いや、ちょっと……」

と言いながら、そそくさと離れていった。

その顔は、さっき私の食欲を笑っていたときより、よっぽど赤くなっていた気がする。

その後ろ姿は、さっきの上司の瞬間移動とは違う種類の速さだった。

愛から逃げる速さと、愛のもとへ向かう速さは、こんなにも見た目が似ているのか。

妙に感心した。

「なんか、すみません」

女性に謝ると、

「いいんです。さっきの800グラムの話のあたりから、ちょっと感じ悪いなって思い始めてたので」

と言った。

さらに、

「こっちこそ、嫌な気持ちにさせてすみません」

と謝られた。

私は特に何も思っていなかったので、

「大丈夫です」

とだけ返した。

その後、無事に同僚とつけ麺の店へ向かった。

券売機の前で、迷わず「特盛」のボタンを押す。

店員さんも慣れたもので、驚きもせず丼を運んでくる。

さっきの男に見せてやりたかった。

世の中には、800グラムを見ても顔色ひとつ変えない人間が、ちゃんといるのだ。

800グラム。

ペロリと完食した。

うまい。

徹夜と、謎の攻防戦を乗り越えたあとの麺は、格別にうまい。

さっきの二人の話をすると、同僚が言った。

「それ、ファインプレーだよ。妻子持ちだって知らずに付き合ってたら、大変だったんだから」

「私はただ、つけ麺を800グラム食べるって言っただけなんだけどな」

「その正直さが、人を救ったんだよ」

謎の理屈である。

しかし、悪い気はしなかった。

つけ麺を800グラム食べると言っただけなのに、なんだか少しいいことをした気分になった。

世界は、意外と大盛りの正直さで回っているのかもしれない。

【その日の戦績】

・つけ麺800グラム完食(所要時間、約12分)

・フットサル観覧、予定外だが参加(強制)

・デザイン事務所の女性の禁断の恋、未然に防止
 (功労者:同僚の空気の読めなさ)

・自分の予定(仮眠・犬の散歩・草むしり・梅干し確認)、全部後ろ倒し

・「つけ麺800グラムを食べる」という正直さだけで、人助けした気分を獲得

・ナンパ男の「デブるよ」発言、完全スルー(華麗)

・上司の瞬間移動速度、依然として計測不能

いいなと思ったら応援しよう!