舞踏の神を愛する一族、母は70代目前でブルーノ・マーズを踊り狂う。
母は、長らくテニス一筋の人だった。
それが10年ほど前。
通っているスポーツクラブで、エアロビやダンスのクラスに手を出しはじめた。
最初は、本当にただの初心者だった。
スタジオの端っこで、周りをちらちら見ながら、ワンテンポ遅れてついていく。
同じクラブに通っていた私のほうが先輩だったので、
「大丈夫。やっていれば慣れるから」
なんて、うっすら上から目線で励ましたりしていた。
ちなみに私の得意分野は、
走る。
泳ぐ。
持ち上げる。
の三本柱である。
優雅さとは正反対の路線を突き進んできた自負がある。
それでも、あの頃は間違いなく、私が教える側だった。
それから数年。
私は相変わらず、走ったり、イルカのつもりでプールを泳いだり、ひとりで黙々とやるタイプの運動を続けていた。
一方、母は違った。
持ち前の社交力で、みるみる仲間を増やしていった。
エアロビからズンバ。
ズンバからジャズダンス。
気がつけば、踊りのジャンルを勝手にどんどん開拓していた。
もともと、踊りに特別興味があったわけではない。
なのに、ある日を境に、完全に覚醒したらしい。
そんな母が、ある日ふと聞いてきた。
「ブルーノ・マーズって何?」
ヒップホップのイベントで、その曲に合わせて踊ることになったという。
ただし本人は、まずブルーノ・マーズが何者なのかがわかっていない。
「歌手だよ。こんな感じの曲を歌う人」
私はすっかり先生気取りで、動画を検索して聞かせてやった。
母は、
「ふうん」
と言いながら、メモでも取りそうな真剣さで画面を覗き込んでいた。
そして、曲を聴き終わった母が聞いた。
「その人、何歳?」
そこ?
歌手だという説明をしたはずなのに、質問の矛先がまったく違う方向へ飛んでいく。
孫の年齢でも確認するような口調だった。
あの頃は、まだこちらが教える側だった。
数日後。
母からLINEが届いた。
「蛍光カーゴパンツって、どこに売ってるの?」
ブルーノ・マーズの正体もよくわかっていないのに、衣装の情報収集だけは異様に早い。
優先順位が、我が母ながら独特すぎる。
近所のスポーツ用品店。
ネット通販。
果ては娘のクローゼットまで。
あちこちを物色した結果、最終的に母は、思ったより似合う蛍光グリーンのカーゴパンツを手に入れたらしい。
曲は知らない。
でも衣装は完璧。
この人の本番への向き合い方は、いつも順番が少しおかしい。
そして、その少しあと。
私は母の通うスタジオを覗く機会があった。
扉を開けた瞬間、言葉を失った。
ミラーボールがぐるんぐるん回る下で、60代、70代のマダムたちが踊っている。
蛍光カーゴパンツ。
トップス。
キャップ。
そして、ブルーノ・マーズ。
ヒップホップのアップテンポな曲に合わせて、全員がものすごい勢いで踊っている。
しかも。
完璧だった。
腰の落とし方も、アイソレーションも、キレも。
どこにも初心者らしさが残っていない。
数か月前、
「ブルーノ・マーズって何?」
と真顔で聞いてきた人と、同一人物とは思えない。
そして、よく見ると。
最前列。
堂々と一番目立つ位置で、腕を振り上げているのが母だった。
教わる側どころか、もはや空気を作っている側である。
私はスタジオの外から、しばらくその光景を眺めていた。
試しにガラス越しに、肩だけ真似してアイソレーションもどきをやってみた。
微動だにしない。
代わりに、肩甲骨のあたりで謎の音が鳴った。
持ち上げる。
運ぶ。
走る。
そういう力業なら、誰にも負けない自信がある。
しかし、この滑らかさだけは、逆立ちしても手に入りそうにない。
ガラス越しに、キャップを目深にかぶった母が、リズムに乗ってターンを決めている。
数か月前まで、
「ブルーノ・マーズって何?」
と聞いていた人が、今やミラーボールの下で誰よりもキレている。
——これはもう、教える側とか教わる側とか、そういう話ではない。
完全に、置いていかれた。
しかも母の守備範囲は、ヒップホップだけではない。
ズンバでは、テイラー・スウィフトに合わせて、ちょっとかわいい系のダンスまでお手のものだという。
守備範囲が広すぎる。
曲名も歌手名も、別に覚える気はない。
なのに、振り付けだけは一発で体に入るらしい。
もはや才能の使い方を、少し間違えている気がしなくもない。
そして、ふと思う。
祖母は90歳を超えてなお、日本舞踊とカラオケクラブの演歌ダンスをやめない。
母は70代を目前に、ヒップホップに覚醒し、蛍光カーゴパンツ姿でミラーボールの下、誰よりも踊り狂っている。
この一族、いったいどこまで踊る気なのか。
私は結局、その日もスタジオには入らず、ガラスの外から母のターンを見届けて帰った。
今度会ったら、せめてアイソレーションのコツくらいは、教わる側に回ってみようと思う。
どうやら私は、母にダンスを教える人生ではなく、母からダンスを教わる人生に入ったらしい。
踊る血は、教える側にも教わる側にも、容赦なく降りてくるらしい。
