ビールを5杯飲んだら、ほんのり好きな人の前で固まった。
私は、そんなにお酒が飲めない。
ビール一杯で顔が赤くなり、二杯目でだいたい満足する。
三杯目に手を出すのは、よほど機嫌がいい日だけだ。
だから、その日も特に期待していなかった。
会社の飲み会が、神宮外苑のビアガーデンになった。
「外で飲むビールって、なんか違うらしいよ」
同期が言っていたが、正直、話半分に聞いていた。
ビールはビールだろう。
私はそう思っていた。
大きな勘違いだった。
夕方の風が、少しずつ涼しくなっていく時間。
頭上には木の葉。
遠くにはビルの灯り。
テーブルの上には、よく冷えたジョッキ。
一口目を飲んだ瞬間、何かが体の中で弾けた。
「……おいしい」
思わず、声が出た。
二杯目。
「これは、外で飲むからおいしいのか」
三杯目。
「いや、私が今、人生で一番ビールに向いているコンディションなのかもしれない」
気づけば、五杯目だった。
私の人生で、五杯という数字を更新したのは、これが初めてだった。
自己記録更新である。
そして私は、絶好調になった。
お通しの枝豆を、気づけば同僚の分まで食べていた。
焼き鳥は、串から素手で外して食べる派になっていた。
誰かが、
「取り皿使ってください」
と言ったが、その頃にはもう、聞こえていなかった。
そして、悪い癖が出た。
「ちょっと、持ち上げてもいい?」
隣にいた後輩に聞いた。
返事を待たずに、腰のあたりに手を回す。
「うわ、軽っ」
「ゴリねえさん、力持ちすぎ!」
きゃっきゃと盛り上がる同僚たちを、私は次々と持ち上げていった。
ビアガーデンの片隅で、ちょっとした重量挙げ大会が始まっていた。
私は完全に、その場の主役だった。
ビールがうまい。
風が気持ちいい。
ついでに言うと、人生も気持ちよかった。
このまま朝まででも飲めそうな気がしていた。
そのときだった。
「……あれ」
視線の先に、見覚えのある顔があった。
隣のテーブル。
印刷会社の集団の中に、佐藤さん(仮名)がいた。
そう。
あの佐藤さんである。
昔、会社のトイレに閉じ込められて、私がドアを蹴り破って救出した、あの人。
そして、私が「ゴリねえ」と呼ばれるようになった、すべての始まりの人。
ほんのり、好きだった人。
目が合った。
「あ」
向こうも、私に気づいた。
その瞬間。
私の体は、さっきまでの絶好調が嘘のように、ぴたりと止まった。
後輩を、宙に浮かせたまま。
何か言わなければ。
せめて、笑顔で会釈くらいは。
そう思うのに、体が動かない。
「久しぶりです」の一言すら、うまく組み立てられない。
さっきまで、あんなに自由だったのに。
好きな人を見た瞬間、全部止まった。
数秒後、私はようやく後輩を静かに床へ下ろした。
そして、片手を小さく挙げた。
それだけだった。
佐藤さんも、少し戸惑ったような笑みを返して、自分のテーブルへ戻っていった。
ああ。
私は本当に、いつもこうだ。
好きな人の前だと、なぜか一番かっこ悪い自分が出てくる。
トイレのドアを蹴り破ったときも、今も、変わっていない。
しばらく、その場でぼんやりしていた。
でも、五杯目のビールで満たされた胃は、正直だった。
漂ってくる匂いに、鼻が動く。
「……ドイツ風ウインナー、頼んでいい?」
隣の同僚に聞いた。
「さっきまで固まってたのに、切り替え早すぎ」
笑われた。
でも、もう、いい。
好きな人の前でかっこよくいられたことなんて、人生で一度もない。
トイレのドアを蹴り破ったときから、ずっとそうだ。
それでも、ビールはうまかった。
風は気持ちよかった。
ソーセージも、うまかった。
戦績。
ビール五杯。
後輩三人持ち上げ。
恋バナ、ゼロ勝。
それで、今日は十分だった。
