力持ちの自覚がない女、周囲にだけ怪力認定される。
新入社員だった年の、よく晴れた土曜日。
私は、上司である担当編集者について、漫画家さんの引っ越しの手伝いに駆り出されていた。
正確には、駆り出されたというより、押しかけたに近い。
新人の私にできることなど、荷物にラベルを貼るか、段ボールを組み立てるか、そのくらいしかない。
上司と漫画家さんが荷物リストを確認している横で、私は完全に手持ち無沙汰だった。
折りたたんだガムテープの台紙を、意味もなく指でくるくる回していた。
「業者さん、まだ来ないですね」
引っ越し業者が到着するのは、11時の予定だった。
時計を見ると、まだ10時半。
暇である。
ものすごく暇である。
新人というのは、暇な時間がいちばん怖い生き物だ。
手持ち無沙汰=役立たず。
そんな方程式が、脳内で勝手に成立してしまう。
何か役に立ちたい。
せめて、椅子の一つでも運んでおこう。
私はそう思った。
漫画家さんの部屋は5階。
しかも、エレベーターなしの物件だった。
「これ、下まで運んでおきますね」
椅子を担いで、非常階段を降りる。
スーツのジャケットを脱いで、シャツの袖をまくった時点で、すでに新人らしからぬ気合いが入っていたのだが、本人にその自覚はない。
ものの数分で戻ってくると、漫画家さんが目を丸くしていた。
「早い……」
続けて、一人掛けのソファを運ぶ。
木製の脚がついた、それなりに立派なソファだったが、持てないほどではない。
「まだ業者さん来ないので、ついでに」
持てるかどうかを判断する基準が、この時点ですでに一般常識から少しずつずれて始めていたことに、当の本人はまるで気づいていない。
三往復目。
四往復目。
段ボールに、小さな棚に、電子レンジ。
運べるものは、片っ端から運んだ。
非常階段の踊り場を通るたび、洗濯物を干していた隣の部屋の住人と何度も目が合う。
そのたびに、会釈だけして通り過ぎる。
あの人は今もきっと、あの日の記憶を「謎の運搬をしていた女」として保持していると思う。
私の中では、ごく自然な流れだった。
暇だから、手伝う。
手伝えるものがある。
運ぶ。
以上。
因数分解すると、それだけのシンプルな式である。
異変が起きたのは、部屋にあと一つ、大物が残っていることに気づいたときだった。
洗濯機。
7キロサイズの、縦型洗濯機だった。
「これも、運んじゃいますね」
私がそう言うと、荷物の梱包をしていた漫画家さんが顔を上げた。
「え? 一人で?」
「大丈夫です、大丈夫です」
大丈夫の根拠は、特になかった。
ただ、椅子もソファも運べたのだから、これも運べるだろう。
「今日ここまで運んだ実績」が、いつの間にか「洗濯機も運べる資格」にすり替わっていた。
完全な論理の飛躍である。
だが、当時の私はそれに気づかなかった。
洗濯機を抱え上げた瞬間、
「思っていたより重い」
と、初めて気づいた。
7キロというのは洗濯容量であって、本体の重さではない。
ここで私は、ようやく数字の意味を間違えていたことに気づいた。
だが、もう遅い。
抱えてしまった以上、後には引けない。
エレベーターなし物件を選んだ漫画家さんを、この瞬間だけ少し恨んだ。
一段。
また一段。
踊り場で一度、太ももに洗濯機を預けて息を整える。
汗が背中を伝い、視界の端に自分の前髪が張りついている。
腕の感覚も、だんだん怪しくなってきた。
しかし、私は降り続けた。
「ゴリねえ、何してるの……?」
踊り場に顔を出した上司が、そこで固まっていた。
声のトーンから、褒めているのか、心配しているのか、判断がつかない。
おそらく、その両方が半分ずつ。
そこに少しだけ、「見てはいけないものを見た」という感情が混ざっていたと思う。
「洗濯機、運んでます!」
満面の笑みで答える私に、上司は何か言いかけて、やめた。
二度、口を開いては閉じる。
そして最終的に出てきたのは、驚くほど短い一言だった。
「……いや、もういいから。無理しないで」
無理はしていない。
ただ、途中でやめるほうが無理だと思っただけである。
なんとか1階まで降り切り、玄関先に洗濯機をどすんと置いた。
その瞬間。
遠くから、
「おはようございます!」
という元気な声が聞こえた。
業者さんの到着である。
台車を押しながら現れた業者さんは、すでに玄関に並べられた家具一式を見て、一瞬動きを止めた。
それから、
椅子。
ソファ。
電子レンジ。
そして、洗濯機。
順番に視線を移動させていく。
まるで、現場に残された謎の証拠品を検分する刑事のような目だった。
「あの……もしかして、もう運ばれてます……?」
「はい。暇だったので」
業者さんは、洗濯機と私を交互に見比べた。
そして、深く頷いた。
何かに納得したような。
それでいて、まったく納得していないような。
絶妙な頷きだった。
「……ありがとうございます。助かります」
その声には、感謝と、ほんの少しの戸惑いが同時に含まれていた気がする。
もしかすると、
「じゃあ、我々は何をしに来たんでしょう」
という気持ちも、少しくらいあったかもしれない。
漫画家さんは、終始遠い目でこちらを見ていた。
あとで上司に聞いた話では、
「新人さんなのに、なんかすごい人が来たね」
と言っていたらしい。
「すごい」が褒め言葉なのか、単なる感想なのかは分からなかった。
私は、褒め言葉として受け取っておくことにした。
私はただ、引っ越しの手伝いをしただけである。
ところが。
なぜかそれ以来、社内で「重いものを持てる女」として認識されるようになった。
誰かの机が動かせないとき。
コピー用紙の箱が積み上がったとき。
来客用の折りたたみ椅子が大量に届いたとき。
決まって声がかかる。
「ゴリねえ、これ持てる?」
どうやら、あの日を境に、
「困ったらゴリねえ」
という不文律が、社内に静かに定着したらしい。
自分では、いたって普通に手伝っていたつもりなのだが。
そして私は今でも、自分を特別な力持ちだとは思っていない。
持てるものは持つ。
困っている人がいたら手伝う。
それだけである。
……たぶん。
【本日の戦績】
椅子、搬送。
ソファ、搬送。
電子レンジ、搬送。
洗濯機、単独搬送1台。
上司の困惑顔、確認1回。
業者さんの二度見、1回。
社内での通り名、「力持ち」。
本人の自覚、いまだになし。
