ヤドカニを尾行していたら、谷くんを巻き込んでしまった話。
子どもの頃から、行列を見ると先が気になって仕方ない性質があった。
アリの行列を見れば、その先が気になる。
通勤ラッシュの改札を見ても、みんなどこへ向かっているんだろうと思う。
そしてこの性質は、なぜかヤドカニとサワガニにも全力で発揮されていた。
家からバスで40分ほどのところに、大きな磯と小さな海岸のある公園があった。
遠足といえば必ずそこだったし、家族でもよく行っていた。
私にとっては、ほぼ行きつけのヤドカニスポットである。
そこでの遊びは、切り立った岩の間に潜むヤドカニ、もしくはサワガニの中から、その日の「お気に入り」を一匹選び、ひたすら尾行するというものだった。
捕まえない。
名前もつけない。
ただ、ついていく。
今思えば、小学生女子の遊びとしては、なかなか地味で、なかなか理解しがたい。
しかも私は、かなり本気だった。
「今日はこの子」と一匹を選び、ちょうどいい棒を片手に、一定の距離を保ちながら追跡する。
ヤドカニからすれば、突然現れた人間に尾行されるだけの、心底迷惑な一日だったと思う。
小学6年生の遠足も、その磯だった。
6年生ともなると、女子はもう広場でおしゃべりする年頃である。
ヤドカニに本気を出すのは、学年広しといえど私くらいのものだった。
それでも私は、こっそり磯へ向かった。
少しだけヤドカニにちょっかいを出してから、何食わぬ顔で合流しようという算段である。
先生の目は磯にも届いていたが、止める人間は特にいなかった。
たぶん先生も、私がそういう人間だということを、とっくに諦めていたのだと思う。
しゃがみ込み、髪を耳にかけては岩の隙間を覗き込み、時には岩に片膝をついてまで、ちょうどいい棒とお気に入りの一匹を物色していた。
すると、頭の上から声がした。
「ねえ、なにやってるの」
振り返ると、谷くんだった。
谷くんは、成績はクラスで断トツ。
運動もできる。
誰にでも優しい。
小学生の完成形みたいな子だった。
あまりに神々しくて、それまでまともに話したこともなかった。
そんな谷くんに初めて話しかけられ、私は盛大に動揺した。
ただし、隠すという選択肢だけは一切思いつかなかったらしい。
ありのまま答えた。
「お気に入りのヤドカニを尾行してる」
谷くんは、ぽかんとした。
そりゃそうだ。
小学6年生の女子に話しかけたら、
「ヤドカニを尾行している」
と真顔で返ってきたのである。
普通ならここで、そっと静かに離脱するところだ。
ところが谷くんは、
「おもしろい?」
と聞いてくれた。
私はうなずいた。
すると、
「一緒に尾行してみていい?」
大パニックである。
小学6年生の私でも、ヤドカニ尾行が趣味の女というのは、なかなかの珍獣枠だということくらいはわかっていた。
わかっていたが、断る度胸もない。
私は自分の棒を谷くんに手渡した。
こうして、二人でヤドカニを尾行することになった。
そう決まった瞬間、なぜか無性に、谷くんにこの遊びの素晴らしさを全力で伝えたくなってきた。
まずは谷くんのお気に入りを見つけようと、二人で岩の間を探し回る。
谷くんは戸惑いながらも、私の情熱に付き合ってくれた。
ヤドカニを探しながら、谷くんはぽつりぽつりと自分の話をしてくれた。
中学受験で東京の進学校に行くことは、もうクラス中が知っている話だった。
でも、本当は地元に残りたいこと。
毎日塾に通っているけれど、本当は放課後に校庭でボール鬼がしたいこと。
岩をまたぎながら話す谷くんが、少し寂しそうに見えた。
私は何を思ったのか、急にやる気を出した。
そして、ヤドカニとサワガニについての知識を、これでもかと語り始めた。
何を隠そう、これが私の唯一得意なジャンルだったからだ。
人を励ます方法はよくわからない。
でも、ヤドカニのことなら任せてほしい。
私は持てる知識を総動員した。
そして、たぶんこんなことを言った。
「尾行した先に何があるかは、わからない」
ヤドカニの話である。
ここまではいい。
問題は、その先だった。
「わからないけど、きっとすごく素敵な場所に行けると思ってる」
今考えると、何を言っているのか自分でもよくわからない。
ヤドカニの話から、人生の話に飛躍している。
小学生の私、ずいぶん壮大なことを言う。
それでも谷くんは笑わなかった。
静かに、
「見てみたいね」
と言った。
結局、ヤドカニの行き先は、集合時間の合図に邪魔されて判明しないまま終わった。
私たちは二人でバスに戻った。
特にからかわれることもなかった。
谷くんの人徳だったのか。
それとも、そもそも誰も私に恋愛的な期待をしていなかったのか。
その真相は、今もわからない。
ただ、帰りのバスの後方で、谷くんが私に借りた棒をくるくる回しているのが見えた。
それを見た瞬間、私の中に、うれしいような、なんとも言えないような、うまく名前のつけられない気持ちが生まれた。
あれが恋だったのかと言われると、正直わからない。
何しろ主役はヤドカニで、私はその案内人でしかなかったのだから。
それでも、あの磯の岩の匂いと、棒を回す谷くんの手元だけは、今でもやけに鮮明に覚えている。
私の恋未満の記憶は、いつもヤドカニとセットでやってくる。
