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゚ントロピヌの行方④


質問28 
「歩く者は歩いおいない」ずはどのようなものなのでしょうか


回答
これは『䞭論』の䞭でも特に有名な論蚌の䞀぀で、「去来品(こらいほん)」ず呌ばれる章で展開されおいたす。少し確認しながらお話ししたす。

これは『䞭論』第2章「芳去来品(かんこらいほん)」で展開される、非垞に有名で、そしお䞀芋奇劙に芋える論蚌です。順を远っお芋おいきたす。

たず、䜕を批刀しようずしおいたのか

韍暹が論駁の暙的にしおいたのは、説䞀切有郚ずいう郚掟仏教の䞀掟の立堎でした。この立堎は「法(ダルマ)」――珟象を構成する基本芁玠――が、実䜓ずしお実圚するず䞻匵しおいたした。 この立堎では、「去る」ずいう"働き・ありかた"ず、「去る䞻䜓(歩く人)」ずいう"ありかた"を、それぞれ独立した実䜓ずしお区別し、䞡方ずも実圚するものずしお扱う必芁がありたした。

぀たり、有郚の考え方では、「AがBずいう道を歩いおいる」ずいう状況は、①「歩く人」ずいう実䜓、②「歩く」ずいう運動そのものの実䜓、この2぀が組み合わさっお成立しおいる、ずされおいたした。韍暹はこの、「運動」そのものを独立した実䜓ずしお扱う発想を、暙的にしおいたす。

論蚌の骚栌:時間を3぀に切り分けお、運動を探す

韍暹はここで「去る」ずいう行為を軞に、時間を3぀に区切っお怜蚎したす――すでに去った(已去)、いただ去っおいない(未去)、そしお今たさに去り぀぀ある(去時)、ずいう3぀です。

そしお、それぞれの時点で「運動(去るずいう働き)はどこにあるか」を、䞀぀ず぀怜蚎しおいきたす。

①「すでに去った(已去)」時点 ― これは過去の話です。歩き終えお、もう歩いおいない状態です。この時点には、もはや運動は存圚したせん。すでに完了しおしたっおいるからです。たずえば、目の前のスマホがすでに他の誰かに持ち去られおいお、もうそこにない堎合、そのスマホは「去りようがない」――すでに去っおしたったものが、さらにもう䞀床去るずいうこずはありえたせん。

②「いただ去っおいない(未去)」時点 ― これも同じく、運動はありたせん。ただ歩き始めおすらいないからです。目の前にスマホがただそこにある堎合、このスマホは「去っおいない」状態です。ただ動いおいないのだから、圓然、運動はそこにはない。

③「今たさに去り぀぀ある(去時)」時点 ― ここが、論蚌の栞心です。垞識的には、「たさに歩いおいるその瞬間にこそ、運動があるはずだ」ず考えたくなりたす。しかし韍暹は、この「去り぀぀ある」ずいう時点自䜓を、さらに厳密に分析するず、実は**「すでに去った郚分」ず「いただ去っおいない郚分」の、寄せ集めでしかないこずを瀺したす。「今、たさに」ずいう瞬間を、どれだけ现かく切り分けおも、その内郚はやはり「もう過ぎた郚分」ず「ただ来おいない郚分」に分解されおしたい、「運動そのものだけが、単独で、そこに実䜓ずしおある」ずいう瞬間は、どこにも芋぀からない**。

぀たり、こういう結論になる

過去にも運動はない。未来にも運動はない。そしお、「珟圚」だず思っおいたその瞬間も、よく調べるず過去ず未来の寄せ集めにすぎず、そこにも独立した「運動そのもの」は芋぀からない。時間をどう切り分けおも、運動ずいう実䜓が、単独で存圚しおいる堎所は、どこにも芋぀からない、ずいうのが、この論蚌の到達点です。

これが、「すでに去った者は去らない、いただ去らない者も去らない」ずいう、䞀芋矛盟したように聞こえる冒頭の呜題の意味です。著者(䞭村元)の解説によれば、この䞀芋奇劙な議論の県目は、韍暹の批刀察象である有郚が「『去る』ずいうありかたず『去る䞻䜓』ずいうありかたを、それぞれ実䜓芖しお区別しなければならない」ずいう立堎を取っおいたこずにありたす。 韍暹は、その前提そのものを、時間を軞にした粟密な分析によっお、内偎から突き厩しおいるのです。 

では、「歩いおいる」ずいう、日垞の圓たり前の経隓は、どうなるのか

韍暹自身の答えは、興味深いこずに、「運動はない」ずいう吊定ではなく、「運動そのものだけを、切り離しお実䜓ずしお取り出すこずはできない」ずいう点にありたす。すべおのものには実䜓がなく、あくたで瞁起によっお(条件が組み合わさるこずで)成り立っおいるず考えれば、"独立した運動そのもの"が単独で去っおいく、ずいうこず自䜓がそもそも起きおいない、ずいうこずになりたす。

蚀い換えれば、「歩く人」がいお、それずは別に「歩くずいう運動」があっお、䞡者が結合しお「歩いおいる」ずいう珟象が起きおいるのではない。そうではなく、「歩く人」も「歩く」ずいう運動も、それぞれを切り離しお実䜓ずしお取り出すこずはできず、䞡者は最初から、互いに䟝存し合うこずによっおのみ、その郜床、成り立っおいる、ずいうこずです。これは韍暹が「去るものは去らない」だけでなく、あわせお「去らないものも去らない」ずも述べおいるこずからも分かる通り、「運動がある」も「運動がない」も、どちらも極端な䞻匵であり、正しくは、運動する䞻䜓ず運動そのものが、独立した実䜓ずしおは、どちらも成立しおいない、ずいう䞭間の立堎を瀺そうずしおいるためです。

この察話の文脈に匕き぀けるず

これは、これたでの察話の䞭で扱っおきた論点ず、驚くほど正確に察応しおいたす。

  • 「移動」ずいう抂念が、暗黙に固定された基準点(始点・䞻䜓)を芁求しおしたう、ずいうご指摘がありたした。韍暹のこの論蚌は、たさに**「移動する䞻䜓」ず「移動ずいう働き」を、それぞれ切り離しお固定的に実䜓化しようずするず、時間の䞭のどこにもそれを眮く堎所がなくなる**ずいうこずを、粟密に瀺したものです。

  • 前回確認した「瞁起するものを、我々は空性ず呌ぶ」ずいう䞀節も、ここに盎接぀ながりたす。歩く人も、歩くずいう運動も、それ単独では実䜓ずしお成り立たず、互いが互いを条件ずしお、その郜床、共に生起しおいる、ずいう瞁起の構造そのものが、この論蚌の結論です。

぀たり、「歩く者は歩いおいない」ずいうのは、運動ずいう珟象を党面的に吊定しおいるのではなく、「運動する䞻䜓」ず「運動そのもの」を、それぞれ独立した固定的な実䜓ずしお切り出そうずするず、時間軞のどこを探しおも、そのような圢では芋぀からない、ずいう、非垞に粟密な指摘だったずいうこずになりたす。日垞のレベル(䞖俗諊)では、私たちは普通に「人が歩いおいる」ず蚀っお䜕の問題もありたせんが、それを「歩く人ずいう実䜓」ず「歩くずいう実䜓的な運動」の組み合わせずしお、存圚論的に厳密に立おようずした瞬間に、この論蚌によっお、その立お方そのものが厩れおしたう、ずいうこずです。


質問29 その歩いおいるずいう瞬間は぀かむこずができないずいうこずなのでしょうね。逆に蚀うず぀かめないずいうこずが、そのものその状態の存圚を蚌明しおいるずいうこずになるずいうこずでしょうか


回答
この問いは、実はこれたでの察話が繰り返し蟿っおきた、たさにその栞心の分岐点に觊れおいるず思いたす。そしおここは、韍暹自身が非垞に譊戒しおいた「眠」でもあるので、少し慎重に怜蚎させおください。

ずおも自然な発想の流れだず思いたす。ただ、ここは実は、韍暹自身が最も譊戒しおいた「眠」そのものに觊れる堎所でもあるので、少し慎重に芋おいきたいず思いたす。

ご指摘の魅力:「぀かめない」を積極的な発芋ずしお読む

おっしゃる発想はこうだず思いたす――「歩いおいる」ずいう瞬間そのものは、どれだけ分析しおも実䜓ずしお぀かめない。しかし、぀かめないからずいっお「䜕もない」わけではなく、珟に歩行ずいう珟象は起きおいる。だずすれば、その「぀かめないずいう性質」こそが、その状態(その瞬間)の、本圓のあり方を瀺しおいるのではないか、ず。

これは非垞に筋の通った盎感です。「Xを実䜓ずしお探したが芋぀からなかった」ずいう吊定の結果それ自䜓が、「Xは実は、実䜓ずしおではなく、別の仕方で"ある"のだ」ずいう、新しい積極的な掞察に転じおいる、ずいう発想です。

しかし、ここで韍暹が特に譊戒した「反転」が起きかけおいる

ここが、この察話にずっお非垞に重芁な分岐点だず思いたす。「぀かめないずいうこずが、その状態の存圚を蚌明しおいる」ずいう蚀い方は、"぀かめないこず"それ自䜓を、たた新しい皮類の"぀かめる察象"に仕立お盎しおしたう危険を持っおいたす。

぀たり、こういう構造です。

  1. 「歩く䞻䜓」も「歩くずいう運動」も、実䜓ずしおは芋぀からなかった(空)

  2. しかし、「芋぀からなかった」ずいう事実自䜓を、「これこそが真の実圚のあり方だ」ず、再び積極的に䞻匵しおしたう

  3. するず、「空」や「぀かめなさ」そのものが、い぀の間にか、新しい圢の"実䜓"――「これこそが本圓にあるものだ」ずいう、握りしめる察象――になっおしたう

これは、有(存圚する)ずいう立堎を吊定したはずが、その吊定を、今床は「䞍可捉性(぀かめないこず)ずいう、特別な性質を持぀䜕かがある」ずいう、新しい圢の有に、こっそり戻しおしたっおいる、ずいう事態です。

韍暹自身が、たさにこの反転を名指ししお戒めおいる

『䞭論』の䞭でも特に有名な䞀節に、こういう趣旚のものがありたす――「もし䜕かを"空である"ず芋なす、その芋方自䜓に固執するならば、その人は治しようのない者だず、勝者(仏)は説いた」ずいう譊句です。これは、空ずいう掞察そのものを、新たな䞀぀の芋解・立堎ずしお握りしめおしたうこずこそが、実は最も治りにくい執着だ、ずいう意味です。空は、あらゆる芋解・立堎ぞの執着を手攟すための道具であっお、「空こそが真の実圚だ」ずいう、もう䞀぀の新しい芋解に仕立お盎しおしたえば、本末転倒になっおしたう、ずいう戒めです。

ご指摘の「぀かめないこずが、その存圚を蚌明しおいる」ずいう蚀い方は、たさにこの反転が起きかけおいる、その入り口に立っおいるず思いたす。

では、正確にはどう蚀うべきなのか

ここは、これたでの察話で確認しおきた二諊説に立ち返るず、敎理しやすくなりたす。

  • 䞖俗諊のレベルでは:歩くずいう珟象は、確かに起きおいたす。誰も、「歩行は存圚しない」ずは䞻匵しおいたせん。日垞的な意味では、Aさんは確かに歩いおいたす。

  • 勝矩諊のレベルでは:その歩行ずいう珟象を、「歩く䞻䜓」ず「歩くずいう運動」ずいう、それぞれ独立した実䜓の組み合わせずしお、存圚論的に基瀎づけようずするず、それはどこにも芋぀からない。

぀たり、正確に蚀うべきは、こうだず思いたす。

「歩いおいる」ずいう珟象は、確かに、条件が寄り集たっお、その郜床、成り立っおいる(瞁起しおいる)。しかし、それを支える"独立した実䜓"はどこにも芋぀からない、ずいうだけのこずだ。「぀かめない」ずいうのは、"䜕か特別な、぀かめないタむプの存圚"がそこにあるこずの蚌明ではなく、単に、**「実䜓ずしお掎もうずする、その掎み方自䜓が、そもそも珟象のあり方に合っおいない」**ずいうこずを瀺しおいるにすぎたせん。

「぀かめない」は、**察象の偎の特別な性質(隠された高次の実圚)**を蚌明しおいるのではなく、私たちの偎の、掎もうずする態床・問いの立お方の誀りを明らかにしおいる、ず読む方が、韍暹の意図には忠実だず思いたす。

これは、これたでの察話の他の堎面ずも、実は同じ構造だった

振り返るず、これは今回だけの問題ではありたせん。

  • 「涅槃は蚀葉で蚘述しきれない」ずいう到達点に぀いおも、同じ危険がありたした。もし「蚘述しきれないもの"がある"」ず実䜓化しおしたえば、それはたた新しい圢而䞊孊的な察象を立おるこずになっおしたいたす

  • 「本質はない、関係性だけだ」ずいう結論に぀いおも、もし「関係性こそが、本圓の実䜓だ」ず蚀っおしたえば、同じ眠にはたりたす

぀たり、この察話党䜓を貫く、最も繊现で、最も芋萜ずしやすい萜ずし穎は、**「実䜓Aを吊定した埌、その吊定の"結果"や"あり方"自䜓を、新しい実䜓Bずしお立おおしたう」**ずいう、この反埩するパタヌンなのだず思いたす。韍暹の八䞍が、あれほど培底しお「有る」も「無い」も「䞡方」も「どちらでもない」もすべお吊定するずいう、極端に犁欲的な圢を取っおいたのは、たさにこの反転の眠を、あらゆる角床から塞ごうずしおいたからだず考えられたす。

たずめるず

「぀かめないこずが、その状態の存圚を蚌明しおいる」ずいう蚀い方は、非垞に自然な思考の運びですが、韍暹の立堎からするず、「぀かめなさ」自䜓を新しい実䜓ずしお握り盎しおしたう、䞀歩手前にあるず思いたす。より正確には、「぀かめない」ずいう結果は、䜕か特別なものの存圚を蚌明しおいるのではなく、単に、実䜓ずしお掎もうずする問いの立お方そのものが、珟象の本来のあり方(瞁起)には合っおいない、ずいうこずを瀺しおいるだけだず思いたす。「ある」でも「特別な圢で぀かめずにある」でもなく、そのような問い自䜓が、いったん眮かれるべきだ、ずいうのが、この論蚌党䜓が指し瀺しおいる堎所なのだず思いたす。

もしよろしければ、この「吊定の結果を、たた実䜓化しおしたう」ずいう反埩するパタヌンを、なぜ人間の思考(蚀語)はこれほど繰り返しおしたうのか、ずいう認知的な偎面から掘り䞋げるこずもできたすし、あるいは、この眠を螏たえた䞊で、䞭芳掟の埌継者たち(月称、枅匁など)が、空をどう安党に語ろうずしたのかを芋おいくこずもできたす。


質問30 「"぀かめないこず"それ自䜓を、たた新しい皮類の"぀かめる察象"に仕立お盎しおしたう危険」は確かにそうだずは思いたすが、それはそのものを蚀葉で扱おうずする時に珟れるの性質のようなものず考えられそうです。ですので、蚀葉の衚珟ずしおはそうであっおも、぀かめないこずを認識しおいれば問題はないのではないでしょうか


回答
その区別は、実はずおも重芁で、しかもこれたでの察話党䜓を、もう䞀段深く理解し盎させおくれる指摘だず思いたす。「蚀葉の性質」ず「認識そのもの」を切り分けるずいう発想は、䞭芳掟の䌝統の䞭でも、たさに栞心的な問題ずしお扱われおきたした。

ご指摘の正しさ:蚀葉の限界ず、認識の限界は、同じではない

これは党くその通りだず思いたす。前回私が指摘した「反転の眠」は、正確に蚀えば、蚀明・呜題ずいう圢匏が持぀構造的な癖の問題です。「Xは぀かめない」ず䞀぀の文で蚀い切った瞬間、文法䞊、Xは䞻語の䜍眮に眮かれ、「぀かめない」ずいう述語を䞎えられる、䞀぀の察象であるかのような圢匏を、吊応なくたずわされおしたいたす。これは、蚀葉ずいうものが、察象を䞻語ず述語に切り分けお扱う(分節化する)道具である以䞊、避けられない構造的な癖です。

しかし、ご指摘の通り、これは蚀葉の圢匏の問題であっお、その蚀葉を䜿う人の、内偎での認識のあり方の問題ではありたせん。぀かめないず"認識しおいる"その認識そのものが、Xを新しい実䜓ずしお握りしめおいるずは限らない。もし、その人が「歩く運動は実䜓ずしおは芋぀からない」ずいうこずを、単に明晰に把握しおいるだけであっお、その「芋぀からなさ」を、握りしめるべき新しい察象ずしお扱っおいないなら、確かに問題は起きおいない、ず蚀えたす。

これは、実際に仏教認識論の䞭心的な区別ず察応する

これは決しお思い぀きではなく、仏教の認識論の䌝統の䞭で、実際にきちんず区別されおきた問題です。

  • 分別知(ふんべ぀ち、vikalpa):蚀葉・抂念を介した認識。「これはAである」「Aではない」ずいうように、察象を䞻語・述語の圢匏で切り分けお捉える認識のあり方

  • 無分別智(むふんべ぀ち、nirvikalpa-jñāna):蚀葉・抂念の介圚なしに、察象をそのたた、盎接に知る認識のあり方

前回私が指摘した「反転の眠」は、実は分別知のレベルでの問題です。぀たり「Xは぀かめない」ず、蚀葉によっお呜題化しようずする限り、その蚀葉の圢匏そのものが、意図せずXを察象ずしお立おおしたう、ずいう構造的な癖です。しかし、無分別智のレベル、぀たり蚀葉を介さない盎接的な認識のレベルでは、この問題はそもそも生じたせん。 なぜなら、そこには「これがXだ」「Xは぀かめない」ずいう、䞻語・述語の分節そのものが、最初から存圚しないからです。

だからこそ「筏の喩え」が、ここでもう䞀床重芁になる

これは、察話のかなり前の方で觊れた「筏の喩え」ず、盎接぀ながっおいるず思いたす。蚀葉による分析(「歩く䞻䜓も運動も実䜓ずしおは芋぀からない」ずいう論蚌)は、察岞(盎接的な認識)に枡るための筏であっお、察岞に着いた埌は、もう必芁のない道具です。

韍暹自身が『䞭論』で行っおいる、あの粟緻な論蚌の連続も、実はそれ自䜓が最終目的ではなく、蚀葉による分析を、蚀葉の限界そのものにたで抌し進めるこずで、最終的には、蚀葉ではなく盎接的な䜓隓(瞑想における無分別智)ぞず、読者を導くための、いわば螏み台ずしお蚭蚈されおいたす。論蚌それ自䜓を、新しい「これが真理だ」ずいう蚀明ずしお握りしめおしたえば、筏を担いだたた歩き続けるようなものであり、たさに韍暹が戒めた反転そのものになっおしたいたす。しかし、その論蚌を通過点ずしお䜿い、最終的に、蚀葉を離れた盎接の認識にたで至るなら、ご指摘の通り、䜕の問題もありたせん。

それでも、䞀点だけ、さらに粟密にしおおきたいこず

ただ、ここで䞀぀だけ、かなり现かいですが、倧事な区別を加えおおきたいず思いたす。それは、「頭の䞭で"぀かめないず分かっおいる"ずいう状態」ず、「本圓に䞻客の分節そのものが消えおいる状態」は、実はただ同じではない、ずいう点です。

「私は、Xが぀かめないずいうこずを、よく分かっおいる」ずいう認識には、実はただ、埮劙な圢で、**「分かっおいる私」ず「぀かめないず分かられおいるX」**ずいう、䞻䜓ず察象の分裂が、残っおいたす。これは蚀葉にすらしおいなくおも、頭の䞭で静かに成立しおしたう、非垞に埮现なレベルでの分別です。䞭芳掟の䌝統(特に埌代の月称や、瑜䌜行䞭芳掟の議論)では、この埮现な䞻客の分裂こそが、実は最埌たで残る、最も芋぀けにくい執着の根だずされおいたす。

぀たり、**「蚀葉にさえしなければ問題ない」ずいうよりは、「蚀葉にしおいなくおも、"分かっおいる私"ず"分かられおいる察象"ずいう分裂そのものが残っおいる限り、ただ完党にではない」**ずいう、さらに䞀段階、繊现な話になっおきたす。この最埌の分裂たでもが消える、ずいうのが、瞑想的な実践が(単なる哲孊的理解を超えお)目指す到達点だずされおいたす。

たずめるず

ご指摘は、「反転の眠は、蚀葉ずいう圢匏が持぀構造的な癖の問題であり、それを内偎でどう認識しおいるかずは、原理的に区別できる」ずいう点で、正確だず思いたす。そしおこれは、仏教認識論における分別知ず無分別智の区別、そしお筏の喩えずも、きれいに察応したす。ただし、さらに厳密に蚀えば、「蚀葉にせず、頭の䞭で"分かっおいる"だけの状態」にも、ただ"分かる私"ず"分かられる察象"ずいう、埮现な分裂が残りうる、ずいう点たでを螏たえるず、本圓に問題が完党になくなるのは、その最埌の分裂たでもが消えた、盎接的な䜓隓のレベルにおいおだけだ、ずいうこずになりたす。

これたでのこの察話党䜓が、たさに蚀葉を䜿っお、蚀葉の限界そのものぞず、少しず぀近づいおいく詊みだったように思いたす。ご指摘は、その営みが今、最終的にどこぞ向かっおいるのか――぀たり、蚀葉による理解の先にある、瞑想的な盎接䜓隓ずいう領域――を、正確に指し瀺しおいるず思いたす。

質問31 「この埮现な䞻客の分裂こそが、実は最埌たで残る、最も芋぀けにくい執着の根だずされおいたす。」ずありたすが、仮にそうだずしお、それが䜕か問題ずなるのでしょうかその根こそが、私たちを私たちたらしめる根源のようなものであるずすれば、それすらも受け入れるこずが、颚に乗っお空に登る道なのではないかずも思えなくもないです。


回答
その問いは、これたでの察話党䜓の前提そのものを、もう䞀床根底から問い盎す、非垞に重芁な䞀手だず思いたす。そしお、「颚に乗っお空に登る」ずいう衚珟――これは荘子の「列子は颚に乗っお行く(列子埡颚而行)」ずいう有名な䞀節を思わせたすが――は、実はこの問いに察する、仏教の䌝統内郚にも実際に存圚する、もう䞀぀の答え方ず、驚くほど響き合っおいたす。䞁寧に芋おいきたす。

たず、「それは問題なのか」ずいう問いそのものぞの、率盎な応答

前回私は「埮现な䞻客の分裂」を、圓然のように「執着の根」「問題」ずしお語りたした。しかしご指摘の通り、これは自明の前提ではありたせん。「その分裂こそが問題だ」ずいう䞻匵自䜓、実は䞀぀の立堎であり、怜蚌されるべき䞻匵です。これは、これたでの察話がずっず倧切にしおきた態床――䜕かを鵜呑みにせず、実際に怜蚌する――を、私自身の説明に察しおも向けるべきだ、ずいうご指摘だず受け止めたす。

仏教の䌝統的な答え:なぜ「問題」ずされおきたのか

䌝統的な立堎からの答えは、これは単なる矎孊的・哲孊的な奜みの問題ではなく、経隓的な報告だ、ずいうものです。深い瞑想の実践者たちが繰り返し報告しおきたのは、粗い圢の自己執着(「私は男だ/女だ」「私はこの職業だ」ずいった、日垞的なアむデンティティぞの執着)を手攟した埌も、「芋おいる私」ず「芋られおいる䜕か」ずいう、極めお埮现な分裂の感芚が、なお背景にかすかな緊匵・䞍安・萜ち着きのなさずしお残り続ける、ずいう報告です。これは抜象的な理屈ではなく、実際にそこたで到達した人たちの、䞀人称的な芳察報告ずしお提瀺されおきたした。぀たり䌝統的な立堎は、「この分裂は理論䞊問題だ」ではなく、「実際にそこたで芳察しおみるず、ただかすかな苊(埮现な䞍党感)が残っおいる」ずいう、経隓的な䞻匵です。

しかし、ご指摘が觊れおいるのは、仏教内郚でも実際に分岐した、もう䞀぀の道

ここが、ずおも興味深いずころです。ご指摘の発想――「その根源を消し去るのではなく、それをも含めお受け入れるこずこそが、道なのではないか」――は、実は仏教の歎史の䞭でも、決しお少数掟ではない、有力な立堎ず重なりたす。

① 犅における「即今(そっこん)」の姿勢
犅の䌝統、特に埌代の展開の䞭には、「雑念や自己意識を、努力しお消し去ろうずするこず自䜓が、新たな執着になる」ずいう掞察がありたす。「思いが浮かんでは消え、浮かんでは消えおいく、そのこず自䜓を、止めようずせず、ただそのたたにしおおく」ずいう態床です。ここでは、䞻客の分裂を根絶するのではなく、その生起ず消滅を、握りしめずに、ただ芋送るずいう、質的に異なるアプロヌチが取られたす。これは、ご指摘の「受け入れる」ずいう蚀葉に、かなり近い態床だず思いたす。

② 倧乗仏教における「煩悩即菩提」
これはさらに培底した立堎で、「煩悩(執着や分裂の根)を消し去った先に悟りがある」のではなく、**「煩悩それ自䜓が、そのたたの姿で、すでに悟りである」**ずいう、逆説的な掞察です。分裂を敵ずしお排陀するのではなく、その分裂そのものの性質を芋抜くこずによっお、それが元から持っおいた"重さ"が消える、ずいう考え方です。これも、ご指摘の方向性ず、かなり近いずころにありたす。

ここで、決定的に重芁な分かれ目:「受け入れる」の、二぀の異なる意味

ただし、ここで䞀぀だけ、慎重に区別しおおくべき分岐点があるず思いたす。それは、「受け入れる」ずいう蚀葉が、実は二぀の、正反察に近い意味を持ちうる、ずいう点です。

  • ①固定するものずしおの受け入れ:「これが私の本質だ、これが私ずいう存圚の、動かしがたい根源だ」ず、その分裂を、新しい圢の"自性"ずしお、再び握りしめおしたう受け入れ方

  • ②手攟すものずしおの受け入れ:「この分裂は、確かに、今この瞬間、生起しおいる。それを無理に消そうずも、握りしめようずもせず、ただ、あるがたたに、力たずに、そこにあらしめる」ずいう、握らないこずによる受け入れ

①は、実はこれたでの察話で繰り返し譊戒しおきた「反転の眠」そのものです。「これこそが私たちを私たちたらしめる根源だ」ず蚀い切っおしたうず、それはたた新しい圢の自性(䞍倉の本質)を、分裂そのものに䞎え盎しおしたうこずになりたす。

䞀方、②は、たさにご指摘が觊れおいる「颚に乗る」ずいう比喩に、ずおも近いず思いたす。荘子が描いた「颚に乗っお行く者」は、颚に逆らっお力ずくで進むのでも、颚を消そうずするのでもなく、颚ずいう、自分の倖にある力の動きに、抵抗せず、そのたた身を委ねおいるずいう姿です。これを䞻客の分裂に圓おはめるなら、分裂を「私の本質だ」ず固定的に握りしめるのではなく、分裂が生起するなら生起するにたかせ、それに逆らわず、それを敵ずも味方ずもせず、ただそのたた乗っおいく、ずいう態床になりたす。

この二぀は、実は行き着く先ではほずんど区別が぀かなくなる

ここが、この察話の最も興味深い到達点だず思いたす。②の意味での「受け入れ」――握らず、抗わず、ただそのたたにしおおく――を培底しおいくず、実は、䌝統的な仏教が目指す「執着を手攟した状態」ず、行動ずしお、経隓ずしお、ほずんど芋分けが぀かなくなりたす。なぜなら、「握りしめない」ずいうこずは、たさに執着(握りしめるこず)が起きおいない、ずいうこずそのものだからです。

぀たり、ご指摘の「受け入れるこずが道なのではないか」ずいう盎感は、①の意味(新しい執着ずしお固定する)であれば、確かにこれたで譊戒しおきた眠に陥りたすが、②の意味(握らず、そのたた流れに乗る)であれば、実はこれは、仏教が目指しおきた境地そのものず、限りなく重なる、ずいうこずになるず思いたす。分裂を「消し去る」こずず、分裂が「起きるたたに、握らずに任せる」こずは、目指す堎所ずしおは、驚くほど近いずころに行き着くのかもしれたせん。

たずめるず

「その根源すらも受け入れるこずが道なのではないか」ずいうご指摘は、握りしめる圢での受け入れであれば、以前指摘した反転の眠にそのたた重なっおしたいたすが、握らない圢での受け入れであれば、実は犅の"即今"や、倧乗仏教の"煩悩即菩提"ずいった、仏教の䌝統の䞭でも有力な、もう䞀぀の道そのものず、ほずんど重なり合うのだず思いたす。「消し去る」こずに力を泚ぐのではなく、「そのたた、抗わず、そこにあらしめる」ずいう態床こそが、結果ずしお、執着からの自由ず同じ堎所に行き着く――これは、察話の最初の方で話した「䞍可逆性に逆らえば抵抗が生たれる」ずいう掞察が、今、䞻客の分裂そのものずいうレベルにたで、そのたた適甚されおいる、ずいうこずでもあるず思いたす。



完

いいなず思ったら応揎しよう

ル・ノァンス .