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明治維新の完結:本編 その 15 〜不屈の「カミソリ」陸奥宗光:牢獄から這い上がり、時代を切り裂いた知略の半生〜

今回は、長年の懸案であった領事裁判権の撤廃を
見事に成し遂げた「陸奥宗光」という人物に焦点を当てます。
前半となる今回は、彼の波乱に満ちた幕末から、外相就任までの
軌跡を追っていきましょう。

坂本龍馬の愛弟子から「反政府」の囚人へ

条約改正交渉に当たった外務卿・外務大臣のうち、
陸奥宗光ほど波瀾万丈の生涯を生きた人はいません。
陸奥は1844年、紀州藩士・伊達千広の六男として生まれました。
伊達千広は藩主の信任を背景に改革を実行しますが、藩主の死去後、
政敵により失脚させられます。これにより不遇な少年時代を過ごした
陸奥は、14歳で江戸へ出て勉学に励みます。この後、木戸孝允、
井上馨、村田蔵六、福沢諭吉らと知り合っています。
1863年に神戸海軍操練所に入り、勝海舟・坂本龍馬らと
運命的な出会いを果たしました。 海援隊の主要メンバーとなった陸奥を、
坂本は「刀を差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と
最大級の賛辞を贈っています。

維新後新政府に出仕しますが、木戸と結んで
大久保の権力掌握に抵抗するも失敗して辞職。
大阪会議で木戸が政府に復帰すると、陸奥も政府に戻り、
元老院の中心となって海援隊以来の親友である中島信行らと
憲法草案を作成しています。

1877年、薩摩で西郷隆盛らが挙兵する西南戦争が起きると、
大久保の強権的藩閥政治に反発していた陸奥は、それに乗じた
土佐派の挙兵計画に加担した疑いで逮捕され、
5年の禁固刑に処せられます。
しかし、この「絶望」こそが彼を強くしました。

獄中での研鑽と「第二の師」との出会い

外務卿に就任したかつての政敵・井上馨は、陸奥の非凡な才を惜しみ、
獄中の陸奥に厚遇を与えて支援しました。
1883年、出獄後、井上の勧めでヨーロッパに留学した陸奥は、
ウィーンで国家学の権威シュタインに師事します。
徹底的に西洋の論理を叩き込み、さらに駐オーストリア公使だった
西園寺公望とも親交を結んだことで、
陸奥は「国際感覚を備えたリアリスト」へと変貌を遂げました。

衆議院議員にして農商務大臣:最強の人脈

1886年の帰国後、外務省に出仕し、1888年、駐米公使兼駐メキシコ公使
となり、日墨通商航海条約の調印に成功します。
その直後、井上に日本に呼び戻された陸奥は、
第一次山県内閣の農商務大臣として中央政界へ復帰します。
そして1890年の第1回総選挙で当選し、
「日本初の衆議院議員を兼ねる国務大臣」となったのです。
彼の強みは、その人脈でした。それによる、議会対策を期待されたのです。
まず、初代衆議院議長となった中島信行は海援隊以来の親友。
自由党の実力者である星亨は、陸奥が星のイギリス留学に
便宜を図って以来親交がありました。
また、農商務省の秘書官の中に原敬がいました。言うまでもなく、
のちの「平民宰相」原敬です。彼は陸奥の側近として、
その死まで陸奥を支え続けます。
これらの実力者とのパイプが、後の「陸奥外交」を支える
盤石な基盤となりました。

内閣を揺さぶる「カミソリ」の切れ味

1891年、第一次松方正義内閣が発足します。陸奥は
第一次山県内閣から引き続き農商務相をつとめますが、
松方内閣は、大津事件や選挙大干渉による大混乱で迷走します。
陸奥は閣内で、選挙大干渉をおこなった品川弥二郎内務大臣を
激しく批判します。松方はこれを制止できず、
収拾を枢密院議長だった伊藤に要請します。
陸奥は、説得に来た伊藤博文を、逆に得意の弁舌で説き伏せ、
松方内閣攻撃へと転じさせました。 この陸奥の動きが、薩摩閥と
伊藤・井上らの長州閥とを決定的に離反させ、
政局を大きく動かしたのです。

「元勲内閣」の外務大臣へ

陸奥は伊藤の同調を得ると、農商務相を辞任し、
枢密顧問官となって伊藤の下に入ります。
第三回帝国議会で、民党は松方内閣を激しく攻撃し、
貴族院も距離を置きだしたため、松方内閣は
総辞職に追い込まれます。

1892年8月、山県・黒田・井上ら元勲がズラリと並ぶ
「第二次伊藤博文内閣(元勲内閣)」が発足します。
その心臓部である外務大臣に、ついに陸奥が就任しました。

いよいよ日本外交は、条約改正と日清戦争という、近代最初の荒波へと
突入していくことになります。

次回は、「陸奥外交」の展開をみていきます。

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