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明治維新の完結:本編 その 15 〜「陸奥外交」の真骨頂:三羽烏・小村を率いた知略と、日清開戦前夜の乾坤一擲〜

今回は、外務大臣・陸奥宗光が如何にして不平等条約の壁を
打ち破ったのか、その伝説的な「陸奥外交」の核心に迫ります。

天才を支えた「陸奥派三羽烏」と「小村寿太郎」

1892年、第二次伊藤内閣の外相となった陸奥は、
自らの手足となる最強の実務家集団を作り上げました。
これが「陸奥派の三羽烏」です。彼らの存在なしには、
陸奥外交の成功はあり得ません。

まず一人目が原敬 です。のち「平民宰相」といわれ、
立憲政友会総裁として、本格的政党内閣を組織します。
そのため、政党政治家のイメージが強いかもしれません。
原は、陸奥の農商務相時代からの側近で、組織管理と実務の天才です。
二人目が、林董です。彼は、幕臣出身のプロ外交官で、
箱館戦争に加わって投獄された後、陸奥と知り合い、
岩倉使節団に加わります。各国公使などを歴任し、
陸奥の下、外務次官として改正交渉を支えます。
後に日英同盟を実現させる、欧州交渉のエキスパートです。
三人目が、加藤高明 です。加藤は三菱の創業者である
岩崎弥太郎の娘婿ですが、官界に身を投じて30代で陸奥に抜擢された、
いわば論理の徒です。交渉の戦略を練り、ロンドンの青木周蔵公使へ
緻密な指示を送り続けました。

さらに、陸奥はもう一人の異才を見出していました。
小村寿太郎です。実家の破産などで不遇をかこっていた
小村の語学力と法律知識を見抜き、清国代理公使へと抜擢します。
小村は日清開戦にあたって獅子奮迅の働きを示し、
北京から「清国軍、恐るるに足らず」という極秘報告を送り、
陸奥の決断を支えました。
また、後に桂太郎内閣の外相となり、陸奥の残した課題、
関税自主権の完全回復を、1911年に実現させています。

日清開戦前夜:極限下の二正面作戦

1894年5月、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発し、
日清両軍が朝鮮へ出兵し、一触即発の事態となります。
当時、清に最大の権益を持つイギリスを敵に回せば、
日本の勝機はありません。陸奥は「条約改正」と「日清交渉」という
二つの難局を、同時並行で捌くという神業に挑みました。 

シベリア鉄道の脅威:イギリスを動かしたロジック

陸奥がイギリスに突きつけたのは、泣き落としでも恫喝でもなく、
冷徹な未来予測でした。
当時、ロシアが建設を開始した「シベリア鉄道」は、
海軍国イギリスにとって最大の脅威でした。
将来、シベリア鉄道が完成すれば、ロシアは短期間で
大量の陸上兵力を東アジアへ送り込むことが可能になります。
航空兵力の存在しない当時において、シベリア鉄道は、イギリスが
対抗手段を持ちえない、ロシアの切り札的な存在でした。
このような状況の下、陸奥はイギリスに対し、
「日本を味方につけ、ロシアの南下を食い止める防波堤にする
ことこそが、大英帝国の利益である」と説きました。
日本が清に勝てる保証などどこにもなかった段階で、陸奥は
「未来の協力」を担保に、イギリスの譲歩を引き出そうとしたのです。

悲願の調印:世界を震撼させた逆転劇

陸奥は「法権回復(領事裁判権の撤廃)は5年間の猶予を置く」
という妥協案を提示し、万が一日本が清に敗北した際のイギリスの
リスクを軽減させます。
1894年7月、日英通商航海条約が調印され、領事裁判権の回復と
税権の一部回復が、ついに実現します。
これは、日清開戦のわずか九日前のことでした。
この調印は世界を驚かせました。
「イギリスは、日本が清に勝つと踏んだのか?」——。
この衝撃が連鎖し、他の列強も次々と新条約の調印に
応じることとなったのです。
また、日清開戦後、イギリスが清の側につかないという、
いわば中立化の約束も取り付けます。
無論、これは文章化されておらず、日本が万里の長城以南に
手を出さないという条件もついていましたが。

近代プロ外交の誕生

陸奥宗光は、それまでの「元勲同士の顔色を伺う外交」を排し、
国際法と情勢分析に基づく「近代的なプロ外交」を確立しました。
彼が育てた実務家たちがいたからこそ、日本は条約改正に成功し、
独立を守って列強の仲間入りを果たすことができたのです。

次回は、条約改正の総仕上げを担った小村寿太郎の活躍と、
この壮大な交渉が成功した真の理由をまとめます。
そして、物語はいよいよ新章
「列強の侵略に日本はどう立ち向かったか」
へと突入します。


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