明治維新の完結:本編<最終回> その 35 〜元老の死と帝都の灰燼、一つの時代の「物理的」終焉〜
明治維新の完結、いよいよ最終回です。
明治維新の到達点を1905年の日露戦争終結と定義したとき、
では「明治時代」そのものはいつ終わったのでしょうか。
カレンダーの上では1912年7月30日の明治天皇崩御と改元が
その日ですが、人々の精神において、そして歴史の構造においての
終焉は、より重層的なものでした。
時代の境界線:乃木将軍の殉死と大正の幕開け
1912年9月13日、明治天皇の大喪の礼の夜、乃木希典将軍が
妻とともに自刃しました。この殉死は当時の人々に「明治」が
完全に行き過ぎたことを強烈に印象付けます。
続く大正時代は、一般に「大正デモクラシー」という
自由な空気の時代と捉えられがちですが、その実態は多分に
「雰囲気」的なものでした。
大正末期には政党内閣が誕生し「憲政の常道」が確立される一方で、
普通選挙法と治安維持法がセットで成立するという、
大きな矛盾を抱えていました。
そして1926年、昭和への改元とともに、日本は金融恐慌と
大陸侵攻(山東出兵)という、大破局への道へと足を踏み入れる
ことになります。
伊藤博文から山県有朋へ:藩閥支配の変質
政治史に目を向けると、1881年(明治14年)から約20年続いた
「伊藤博文の時代」は、1900年頃を境に「山縣有朋の時代」へと
移り変わります。
伊藤博文は、 天皇の信任は厚かったが、配下を育てることに
無頓着でした。1900年の立憲政友会結成や1905年の
韓国の統監就任を経て、次第に中央政界から距離を置く
ことになります。
1901年の第一次桂太郎内閣の成立を契機に、
維新以来の元勲たちは政治の一線から退いて、
「元老」と呼ばれるようになります。
これは、いかにも山県らしい、深慮遠謀でした。
伊藤はここまで、常に新しいものを追いかけてきました。
伊藤博文の初物食いといわれ、内閣総理大臣を始め、
「初代~~」ホルダーでした。
今回は、ついに政党を結成して藩閥政府から外へ飛び出します。
その際に、政府内の伊藤系官僚の多くは政府に残り
伊藤と行動を共にしませんでした。これにより、
伊藤の政府に対する影響力は大きく後退します。
しかし、伊藤博文は国民に人気がありました。
この新しい「政党」という舞台を得て、再び人気・勢力を
盛り返す可能性すらありました。
そこで山県は、伊藤を政界の表舞台から引き下ろし、
伊藤の勢力を削ぐことに成功したのです。
山県有朋は、伊藤のように天皇の信任がとびきり厚かった
訳でもなく、国民の人気もほとんど無く、本人のいうとおり、
「一介の武弁」という軍人がその本質でした。
しかし、伊藤とは対照的に、自分の配下・子分を大事にしました。
陸軍からスタートして、内務省・司法省、さらには貴族院へと
着実に自分の配下を増やし、山県閥を形成していきました。
すなわち、国民的人気はなくとも、組織を握ることで、
その後約20年にわたり藩閥政府を事実上支配したのです。
「宮中某重大事件」:崩れゆく山縣の牙城
しかし、山縣の絶対的な権力も晩年には揺らぎます。その象徴が
1921年の宮中某重大事件(皇太子・裕仁親王の婚約騒動)でした。
1919年、裕仁親王(後の昭和天皇)と久邇宮良子女王との
婚約が発表されました。
この婚約は、元首相の山本権兵衛や後の内大臣牧野伸顕ら
薩摩閥の働きかけがあったと言われています。
なぜならば、良子女王の母親は、島津忠義の娘だったからです。
ところが、1920年にはいると、山県は良子女王の家系の
「色覚異常」を理由に婚約辞退を迫りました。
これに薩摩閥や右翼勢力、さらには山県の身内であるはずの
官僚たちまでもが反発。
最終的に山県の目論見は外れ、婚約は維持されました。
これは長州閥に対する薩摩閥の積年の恨みが噴出した結果であり、
山県の元老としての政治的影響力は事実上崩壊しました。
原敬の死と、地上から消えた「明治」
1921年11月、平民宰相・原敬が東京駅で暗殺されます。
病床でこの報を聞いた山県は、「すこぶる残念だ」といって
涙を流します。
その後、病状は回復せず、「ああいう人間をむざむざ殺されては、
日本はたまったものではない。原が死んだのはまことに残念だ」
と繰り返し話したと記録されています。
山県には、陸軍閥には桂太郎・寺内正毅らの腹心がいましたが、
どちらも山県より先に病気で没しています。
また、清浦奎吾は、山県色が強すぎるとして、政党などの
激しい反発を受けていました。
そのため、山県にはその地位を継承させられる
腹心や側近がいませんでした。
原は外交官あがりではありますが、立憲政友会の創設から
関わる政党政治家の顔も持っていました。
そのため、当初は山県には忌避されていましたが、やがて、
山県は原をライバル視しつつも、明治政府の正統な後継者として
その手腕を誰より頼りにしていたのです。
山県は翌1922年に没し、大隈重信、松方正義といった
明治の元勲たちが相次いで世を去ります。
そして1923年9月1日、関東大震災が発生。
明治以来の繁栄を誇った帝都・東京は灰燼に帰しました。
元老という「人」が消え、震災によって「街」が消えた。
これにより、名実ともに地上から「明治」は消滅したのです。
日本はここから、戦争と大破局が待つ昭和戦前という、
制御不能な新時代へと突き進んでいくことになります。
これで、「明治維新の完結」は終わりとなります。
細かく見ていけば、ちょこちょここぼれ落ちている話も
ありますが、それはまた機会があればとします。
この後は、少し趣向を変えて、この2000年の、
「日本国のかたち」について、
考えていきたいと思っています。
次回からの連載を、どうかお待ち頂けると
うれしいです。
またこのnoteの場でお会いしましょう。
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