見出し画像

【21】涌谷武田のルーツは田尻?!

江戸時代、仙台藩/涌谷伊達家の家臣だった武田家の末裔の武田です。現在、涌谷の武田家のルーツをコツコツ探っております。これまで得られた情報を整理して、涌谷武田家は和渕武田家から分立したと考察しています。しかし! 遠戚が残した“調査メモ”が私の考察を揺さぶり始めています…。涌谷武田家は一体どこからやって来た?!

遠戚が残した調査メモ…

noteに書き始めて、新たな情報を得たり、考察や妄想を行う中で脳疲労気味な今日この頃…。そろそろ休憩しようかと資料を片付けていたところ、ファイルの隅に挟まった書類をみつけました。ワープロ打ちで4枚ほど。「武田家の先祖を探求する 昭和54年9月調査」とあります。どうやら、我が武田家の遠戚である高橋家の方が独自に調査をされたもののようです。47年前、私と同じように、涌谷武田家の出自を探っていた方がおられた…。インターネットが無い時代の調査は、資料をめくり、人に聞いて回る…を繰り返す大仕事だったことと思います。その役目、しっかり引継ぎますっ!
肝心の内容については、おもに、甲斐武田一族の足跡、判明している先祖たちの情報などをまとめたものでした。戸籍調査をされていなかったようで、一部には誤記もありましたが、墓碑のお名前などは私の情報と一致しています。そして、さらに衝撃の情報が記載されていたのです!

菩提寺の存在と田尻

私が驚いたのは、「武田の先祖の菩提寺は田尻町辺部の陽山寺…」という記述。さらりと書いてあることに、なんだか信憑性をおぼえます。さっそく調べてみたところ、我が武田家の屋敷跡にある墓群から直線距離で北へ4キロほどにあるお寺でした。あくまでもネット検索の範囲ですが、陽山寺は1532年頃には存在しており、1590年頃に亘理氏の重臣だった長谷景重が寺地を寄進して菩提寺にした…と解説がありました(こちら)。1590年頃から田尻の地に存在しているお寺。ここが武田家の菩提寺だったのか…。移葬の情報も記されており、リアリティあり。
調査メモには、当時の住職さんのコメントも記載されていました。

…北小塩、南小塩、木戸、大沢地区に先祖の墓地があるかも知れない。特に南小塩大沢の公算大なり…

陽山寺吉田端祥住職のコメント

すべて、宮城県遠田郡「田尻(たじり)」という地域の地名です。我が武田家が江戸時代に拠点としていた「中埣(なかぞね)」の北部に位置しており、隣接しているエリアといえる距離感。そして、はっきりと地名を述べておられるので、もう無視できません。地元の方たちの伝承から、真実に辿り着けるケースも十分にあると思うからです。調べてみよう…!

亘理家との関係があった?!

当時の住職が指摘していた「南小塩」「大沢」に注目してみます。田尻の平地から「加護坊山(かごぼうやま)」へ向かっていく麓に、田尻小塩、田尻大沢という地名がありました。このあたりのことでしょうか。Googleマップで眺めていたら、気になる史跡を発見! 小塩と大沢のちょうど間にある「百々舘址(どどやかたあと)」です。「百々城」「鶴城」とも呼ばれているようですが、このあたりを治めた百々家、そして大崎家の居城だったそうな。1590年頃には、大崎家の没落とともに落城。まさに戦国時代、このあたりの情勢が一気に変化していきます。
おなじく1590年頃には伊達家の領地となり、百々城には重臣である亘理元宗重宗親子が亘理から移封されてきたそうで…。あれ、私のnoteですでに登場いただいているお名前…。江戸時代に我が武田家が召し抱えられた涌谷伊達(亘理)家の始祖ですね。1年ほどで涌谷城へ引っ越しされるのですが、ご縁のある亘理家が一時的に入った百々城に隣接する南北エリアに「武田家の古い墓がある」説が存在するのは偶然なのでしょうか…。
さらに、遠戚の調査メモには「武田の先祖は此の涌谷城主亘理元宗につかえ…」とあるのです。「涌谷城主」の意味で「亘理元宗」と表現したとも思えるのですが、もしも、1591年頃に涌谷へ移った亘理元宗から召し抱えられたとしたら、ここまでの考察はすべてリセットです…汗

そして、この亘理元宗こそが、1552年に武田信虎から名刀「綱広」を贈られた人物なのです。亘理家とのエピソードがいくつか重なっているわけですが、これらが“偶然の一致”と思えないのは、私だけでしょうか。

涌谷武田家、ルーツの謎が深まる…!

調査メモを目にするまでは、距離の近さ、家勢のバランスなどをみながら「涌谷武田家」は、仙台藩に召し抱えられた「和渕武田家」から分立した一家だと考えていました。それが、もっとも分かりやすくて現実的な考察であることは間違いありません。ひきつづき、接点を探っていきます。
一方、遠戚が残してくれた伝承を含めた調査メモによれば、我が武田家が拠点としていた「中埣(なかぞね)」より前の時代には「田尻(たじり)」にいたとする仮説も十分に成立します。実際、「田尻町史」を読んでみたところ、いくつもの武田姓を確認することができました。代々武田一族の皆さまが暮らしていたことが分かります。

1590年頃、すでに田尻に武田一族がいたとすれば、和渕武田家とは「関係がない」こととなります。和渕武田家が、仙台藩に召し抱えられて活動を開始するのは1600年以降だからです。また、記録によれば、豊里や和渕の土地を拝領するのは1644年以降。さらに、和渕武田家が家勢をつけ、家族が増えて分立するまでの時間も考慮すると、涌谷武田家が派生したと考えられるのは1620~1630年ごろではないでしょうか。もし、田尻でご先祖の足跡がみつかるとなれば、涌谷武田家が先に存在することとなり、和渕武田家からの分立説は完全に消えてしまいます。

もし、和渕武田家ルートではない場合、甲斐武田一族の所縁をまとった涌谷武田家は、どこから来たのでしょうか。どのような縁があって、田尻界隈に居を構え、その後、中埣へ移ったのでしょうか。
武田家滅亡前に宮城へ流れた甲斐武田一族がいたのでしょうか。それとも、武田家滅亡後に、織田軍から逃げ延びた別の一族がいたのでしょうか。そういえば、百々城まで直線距離で16キロほどの所にある豊里まめから稲荷神社の伝承が頭をよぎりました…

現在の稲荷神社は、天正十年(1582年)に、甲州武田勝頼の遺族が豊里町の沼崎山に神様を祀ったことが始まりました。

稲荷神社の謂より

伝説もふくめて、コツコツ調べてみようと思います!

いいなと思ったら応援しよう!