第38景 「誰が語るか」──まなざしの倫理としてのフェミニズム_シンディ・シャーマンの場合@Misakiのアート万華鏡
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シンディ・シャーマン《Untitled Film Still #21》(1978)。
窓辺に佇む若い女性が、どこかを見つめている。
彼女は秘書だろうか。人妻だろうか。
それとも、誰かを待つ恋人だろうか。
私たちは、つい「物語」を補ってしまう。
けれど──この女性を見ているのは、誰なのか。
実は、この写真に映っているのはシャーマン自身だ。
彼女は自分で衣装を選び、セットを組み、カメラを構えた。
見られる側が、同時に見る側でもある。
この転倒こそが、フェミニズム・アートの核心にある。
「私たちは彼女に物語を押し付けている」──「見ること」の暴力の正体
シャーマンが演じるのは、私たちがどこかで見覚えのある"女性像"だ。
古い映画のワンシーンのようでいて、実際には存在しない物語。
つまり、これは「見る側の記憶」が作り出すイメージなのだ。
観客は、彼女の表情や服装から勝手に物語を組み立ててしまう。

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見ることは、いつも解釈であり、権力である。
フェミニズム・アートは、この「見ること」の暴力を可視化する。
それは「女性を描く」ことではなく、
「女性を見るまなざし」そのものを問い直す試みなのだ。
「誰が語ることを許されてきたか」沈黙を破るフェミニズムの拡張
「見ること」と「語ること」は、実は同じ構造を持っている。
長いあいだ「中立」や「普遍」とされてきた語りの多くは、
実は特定の立場──多くの場合、男性や支配層──からのものだった。
フェミニズムはその前提を明らかにし、
「誰が語ることを許され、誰が沈黙させられてきたのか」を問い直した。
けれど、沈黙は、ただの無言ではない。
語られないことにも、確かに意味がある。
それを尊重することもまた、フェミニズムの成熟した形なのだ。
個人的な問いへ
フェミニズムについて考えるとき、私はいつも少し戸惑う。
「フェミニスト」と名乗る人と、そう名乗らない人。
どちらがより"フェミニズム的"なのか、私にはわからない。
けれど、アートは教えてくれる。
フェミニズムとは、立場ではなく、まなざしの在り方なのだと。
誰かを蔑ろにせず、
不平等を見過ごさず、
世界を正直に見ようとする意志。
それは、右でも左でもない。
ただ、誠実であろうとする態度なのだと思う。
フェミニズムとは、世界をやさしく、しかし正直に見ようとする意志ではないだろうか。

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