短編小説:深海でのキス
夏の日の昼だった。
私の名前は美樹(みき)。
私は深い海の珊瑚礁で、よくスキューバダイビングをしている。私は水の感触を全身で感じたいから、水色のビキニだけを着て潜っている。
海の中に入ると、いつも別の世界に来たような気がした。
水の感触を全身で感じながら、青く透き通った海を泳ぐ。今日も私は珊瑚礁の海へ潜っていた。
太陽の光は、水面から遠く離れた海底まで細い光の柱になって差し込んでいる。
色とりどりの熱帯魚が、その光の中を泳いでいた。
私はそんな静かな海が好きだった。
特にお気に入りなのは、珊瑚礁の谷間にある海底だった。
そこまで泳いでいくと、私は海底に仰向けになった。
頭上には、揺らめく太陽の光。
周囲には花のような珊瑚。
そして、その間を自由に泳ぐ熱帯魚。
私はしばらく、その景色を眺めていた。
やがてレギュレーターを外し、口からゆっくりと息を吐く。
ぽこぽこと浮かんでいく泡が、水中で大きな輪になった。
私はバブルリングがゆっくりと水面へ向かっていくのを眺める。
この瞬間が好きだった。
静かで、誰もいない。
まるで世界に私だけしかいないような気がする。
――そんな時だった。
ふと、頭上を何かが通り過ぎた。
「……えっ?」
私は驚いて起き上がった。
魚ではない。
イルカでもない。
人のようにも見えたけれど、はっきりとは分からなかった。
私は泳いでいった方向へ向かった。
しかし、そこには何もいない。
青い海と珊瑚礁が広がっているだけだった。
「気のせい……?」
そう呟いた瞬間だった。
足首に、何かが触れた。
「えっ?」
次の瞬間。
強い力で足を掴まれた。
私は驚いて手を伸ばしたが、そのまま一気に下へ引っ張られていく。
「――!」
太陽の光が遠ざかる。
珊瑚礁が小さくなっていく。
どんどん、どんどん深くへ。
怖かった。
いったい、どこまで連れていかれるのだろう。
けれど、しばらくすると海底が見えてきた。
やがて私は、深い深い海の底へと降り立った。
そして、私の目の前にいたものを見て、驚いた。
美しい女性だった。
長い髪が海の流れに揺れている。
そして、その下半身には魚の尾があった。
「……人魚?」
まさか。
そんなものが本当に存在するなんて思っていなかった。
人魚は私を見つめると、いたずらっぽく微笑んだ。
「ふふっ。びっくりした?」
私は驚きのあまり、ただ頷くことしかできなかった。
人魚は少し申し訳なさそうな表情になった。
「いつも来ていたよね。この珊瑚礁に」
「……見てたの?」
「うん。ずっと」
そう言って、人魚は少し照れたように笑った。
その表情を見ていると、さっきまでの緊張が少しずつほどけていった。
「怖がらせてごめんね」
人魚は静かに言った。
「でも……どうしても、あなたと話してみたかった」
そう言って、人魚は私に手を差し出した。
私はその手を見つめた。
少しだけ迷った。
でも――。
私はそっと、その手を取った。
人魚は嬉しそうに微笑んだ。
「秘密の場所、教えてあげる」
そう言って、私の手を引いた。
二人で海底を泳いでいく。
しばらくすると、暗かった海の景色が突然開けた。
私は思わず息をのんだ。
そこには、大きな海底神殿があった。
古びた柱も、階段も、壁も、すべて美しい珊瑚に覆われている。
まるで海の中に眠る、誰にも知られていない王国のようだった。
人魚は振り返った。
「ここ、私のお家」
「……きれい」
私が呟くと、人魚は嬉しそうに笑った。
「でしょ?」
そして、少し照れながら続けた。
「誰にも見せたことがなかったんだ」
「どうして……私に?」
人魚は少しだけ黙った。
それから、私の目をまっすぐ見つめた。
「一人で泳ぐあなたが好きだったから」
胸がどきっとした。
海の中なのに、頬が熱くなるような気がした。
それから私たちは、海底神殿で静かな時間を過ごした。
言葉を交わしたり、珊瑚の間を泳いだり。
時には何も話さず、ただ隣にいるだけだった。
不思議だった。
初めて会ったばかりなのに、ずっと前から知っていたような気がした。
やがて、海底神殿の奥で二人きりになった。
人魚が、そっと私の名前を呼ぶ。
「ねえ、美樹」
私は顔を上げた。
「……なに?」
人魚は微笑んだ。
「二人だけの思い出を作ろう」
私は少し戸惑いながらも、ゆっくり頷いた。
人魚は私の顔を見つめ、それからそっと近づいてきた。
人魚はそっと私のレギュレーターに手を伸ばした。
そして、静かにそれを外した。
続いて、ダイビング機材もゆっくりと外していく。
やがて、水色のビキニだけになった私は、海の中で人魚と向き合った。
呼吸ができない不安が、少しだけ胸を締めつける。
静かな海の中で、二人の距離が少しずつ縮まっていく。
そして――。
人魚は優しく私を抱き寄せた。
唇が、そっと重なる。
一瞬、時間が止まったように感じた。
海の流れも。
魚たちの動きも。
何もかもが遠くなっていく。
そこにあるのは、ただ彼女の優しさだけだった。
甘くて、静かなキス。
長いようでいて、あっという間の時間だった。
やがて唇が離れる。
人魚は私を見つめ、優しく微笑んだ。
「あなたに会えてよかった」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「私も……」
人魚は少し嬉しそうに笑った。
「また来てくれる?」
私は頷いた。
「……うん」
「約束だよ」
そう言って、人魚はもう一度、私の頬に軽く口づけた。
私は思わず笑った。
「また来る」
「待っているよ」
人魚も笑った。
その笑顔を見ながら、私は海底神殿をあとにする。
再びスキューバ機材を身につけ、私はゆっくりと水面へ向かって泳いでいく。
深海から遠ざかるにつれて、太陽の光が少しずつ強くなっていった。
やがて、いつもの珊瑚礁が見えてくる。
そこは何も変わっていなかった。
熱帯魚が泳ぎ、珊瑚が揺れ、太陽の光が海底を照らしている。
けれど、私にはすべてが少し違って見えた。
海の底には、誰にも知られていない世界がある。
そしてそこには、私を待ってくれている人がいる。
水面へ向かいながら、私はそっと唇に触れた。
そこにはまだ、あの優しく甘いぬくもりが残っているような気がした。
私は笑った。
「また来よう」
夏の海は、何も知らないかのように静かに揺れていた。
