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全員が輝く人事を目指して何が悪い?【キリンの視座】

3月は人事の季節。

転勤の可能性がある者は、そわそわと内示を待ち、

転勤の可能性がない者も、校内人事の話題が気になるそんな時期。

「上司に希望を伝えたはずなのに、全く違う転勤になった!」
なんてのはよく聞く話。

わたしも多分にもれず、その典型だった。

人事で不幸になる人がいる。

はたしてそれでいいのだろうか。

全員が輝ける人事をもっと丁寧に進める方法はないのだろうか。



📝希望(人事調書)はなんのために?

自治体によって差はあるが。

多くの場合、教諭も管理職も、
内示以前のいわゆる「打診」というのは、ないことが多い。

いきなり内示で行き先を告げられる。

そして、どれだけ不満であっても基本的には、泣く泣く従っていくものだ。

組織が成り立つためには仕方のないこと。
そういってしまうのは楽であろうが・・・

はたしてそれで一人ひとりの教師が、
質の高い教育を行っていけるのだろうか。

「自分の輝くべき場所は、もっと他にあるはず」

そう思いながら仕事をしている教師がどれだけいるだろうか。

実情の一端として、

中には、管理職が希望を聞きながら、それがさらに上の市町村教委や、さらに都道府県教委の担当者にまで上がっていない。

もしくは、管理職が人事担当者に希望は伝えるが、校長が管理職として「別の希望」を進言する。

そんなことが行われている。

ブラックボックスとなっている人事は、
一部の人間の組織のためだけの思惑でしかない。


📏一直線な評価軸だけで教師をみてしまう危うさ

このような違和感は、
人事を動かす側だけのことではない。

動かされる側の考え方もどうだろうか。

「あいつはだめ。」
「できない人を置いておくと・・・」

といった、人を全否定的にみる言葉は聞かれないだろうか。

逆に、

「いい人が来れば・・・」
「彼のほうができるし・・・」

といった全肯定的な言葉も大いに違和感がある。

共通していることは、

評価軸が一本しかないことだ。

全教師が一列にならべて評価されて、
「いい」教師から「悪い」教師まで一直線。

組織を維持するための能力だけが、どうしても焦点になる。

もちろんその「いい」にも「悪い」にも、
様々な要素が含まれて入るだろう。

生徒指導、保護者対応、特別支援、ICT、教科教育の実践、教員同士の関係つくりなどなど・・・

問題なのは、
それらを統合して、一つの軸だけにまとめてしまっている点にある。

教師の能力は、もっと多彩で複合的である。

教師の姿も、多角的・多面的に評価する必要があるのではないだろうか。


✨全員が輝く人事を目指して

はたして、全員が輝く人事とはできないものだろうか。

誰もが長所を生かし、その長所を組み合わせて教育を成り立たせることはできないだろうか。

①とにかく丁寧な希望の聞き取りと事前打診💬

今の人事はあまりにブラックボックスと化している。自由に書けない調書をもとに、一部の人たちの思惑で動く。

「自分はこうありたい!」と声を大に言えない雰囲気。

わたしは、もっと丁寧に希望を聞く必要があると思う。

本当に、
指導主事になりたい人はいないのか?
管理職になりたい人はいないのか?
しんどい学校に行きたい人はいないのか?

ただ、そういう希望を言いにくいだけの場合もあるのではないだろうか。

また、その希望を言えたとしても、その背景まで管理職や人事担当は把握しているだろうか。

もっと、丁寧に、広く、オープンに
希望の把握をするべきであると思う。

②校種間や行政、教育施設などとの人事交流の活性化↔️

人事交流という異動がある。

小学校と中学校などの校種間での異動
国立の学校も含めた採用の自治体を越えた異動
教育委員会や社会教育施設などの教育行政関係への異動
などがある。

これらの異動は制度としてあるものの、実際に異動したという例はほとんど聞かない。

これらをより交流しやすくすることで、一人ひとりがどこかに輝く場所を見出していくことはできるのではないだろうか。

唯一、割と流動的なのが指導主事ではあるが、これも後述するように一方通行の人事である。

常に行き来のできる「交流」を活発にすると、人事の幅も広がると思う。

③一方通行でない上下間の人事異動↕️

教諭から指導主事へ
教諭から教頭へ
教頭から校長へ

これらは、より上席へと立場が変わる人事異動だ。

しかし、逆はどうだろうか??

例えば、教頭から教諭へ。

降格人事として、特例的な扱いであり、本人のキャリアにも傷がつく。

なぜ、指導主事が教諭になってはいけないのか。
なぜ、教頭が教諭に戻ってはいけないのか。

例えば、、、

現場では、指導的な役割をもって活躍している教諭がたくさんいる。

彼らが、なぜ指導主事になることを嫌がるのか。

それは、

多くの指導主事への異動が、一方通行の片道切符であるからだ。

「次は教頭ね」と、勝手に線路を引かれ、戻ることを許されない。

それが、もし仮に、

2年間などの期間限定で、指導的な立場として現場を回る仕事ならどうだろうか。

研究員などの名前で、元の学校へ戻ることが確約された期間限定の行政への出向ならどうだろうか。

きっと手を挙げる人も多くなるだろう。

なにより、それらを経験した教師は、現場でとてつもなく大きな力になる。

指導的な立場としての経験や、行政の仕組みを知った経験がある人物は、たいへん貴重な人材だろう。

もしかすると教育行政に興味を持ち、もっとしてみたいと新たな道を見つけることもあるかもしれない。

また、わたしは、

校長や教頭と教諭の間でも、人事の相互の行き来があっていいと考える。

校長や教頭を「マネージャー職」
教諭を「プレーヤー職」として、
並列に置くようなイメージだ。

責任者が必要であれば、校長職たけは上席にすることも可能だろう。

そうして、マネージャーもプレーヤーも行ったり来たりしながら、それぞれの価値を見出していくことができるだろう。


人事が「希望」を運ぶ季節へ

​人事とは、単に組織を維持するためだけの作業ではない。

そこには一人ひとりの教師の人生があり、その先にいる子どもたちの未来に繋がっている。

​「どこへ行かされるのか」と怯える3月ではなく、「次はどんな自分として、自己実現をしていこうか」とワクワクできる3月へ。

​キャリアの階段を一方向に登り続けることだけが正解ではなく、

「循環する人事」が当たり前になれば、教育現場はもっと風通しの良い、創造的な場所になるのではないだろうか。