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エゴノキの下で、私たちはいつでも立ち止まる

先日、言葉の反対語を調べているうちに、ふと「恋」の反対語は何だろう、と考え込んでしまいました。

愛でしょうか、憎しみでしょうか、それとも無関心でしょうか。そんな答えのない問いに思いを巡らせていた時、頭に浮かんだのがシェイクスピアの『ハムレット』でした。

あまりにも有名なあの台詞。
"To be, or not to be, that is the question."
(生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ)

この人類究極の二者択一を、もしも恋の悩みに置き換えてみたらどうなるでしょう。
「恋するべきか、恋せざるべきか。それが問題だ」
なんだか急に、甘酸っぱくも切ない、大真面目な葛藤が見えてきます。傷つくのが怖くて進めない心と、抑えきれない引力。それはある意味、心の「生と死」をかけた大問題です。

そんな恋の苦悩を眺めていると、今度は遥か1300年前の奈良時代から、タイムカプセルのような歌が届きます。日本最古の歌集『万葉集』に登場する、エゴノキ(山ぢさ)を詠んだ2つの歌です。

「息の緒に 思へる我を 山ぢさの 花にか君が うつろひぬらむ」
(命がけであなたを想っているのに、あなたはエゴノキの花みたいにあっさり心変わりしてしまったのですか)

「山ぢさの 白露重み うらぶれて 心に深く 我が恋止まず」
(エゴノキの花が露の重みでうつむくように、私はすっかり落ち込んでいます。でも、心の奥でこの恋はやまないのです)

ここでちょっと面白いのは、エゴノキの花というのは、人間の都合に関係なく、最初から下向きに咲く植物だということです。
それなのに、ひとたび人間の感情が入ると、「白露の重みで、うなだれるように下を向かされてしまったのだ」と解釈されてしまいます。花本来の姿に、人間は勝手に「恋の重み」を投影してしまうのですね。なんと罪深く、そして愛らしい妄想力なのでしょうか。

万葉集の人々は、野山にある植物の「散りやすさ」や「うつむく姿」といった自然の営みに、自分たちの生の感情をストレートに重ね合わせました。花そのものを愛でるというより、やはり花を通して自分たちの心を見ていたのです。
一方で、のちの『源氏物語』の世界になると、今度は美しく整えられた庭の花を通して、人間の品格や宿命、家柄といったものまで見つめるようになります。

アプローチは少し異なりますが、結局のところ、その根底にある「どうしようもない恋の葛藤」はすべて、あのシェイクスピアの一節に集約されてしまう気がするのです。

「想い続けるべきか、諦めるべきか」
「進むべきか、退くべきか」

どこの国でも、どの時代でも、どれほど文明が進化しても、人間を狂わせる「生と死」、そして「恋」の構造は変わりません。エゴノキの白い花を見て「私の恋のようだ」とため息をつく万葉の歌人も、舞台の上で眉間にシワを寄せるイギリスの劇作家も、みんな同じ地平で頭を抱えています。

そう思うと、いま私たちが抱えているちっぽけな悩みも、なんだか人類が脈々と受け継いできた、終わりのない営みの一部のように思えてきて、
少しだけ愛おしくなってしまうのです。

参考
万葉集〜いにしえの草花の歌〜


では、今日も良い1日を!

#エゴノキ #万葉集  
#シェークスピア

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