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【考察】花沢さん、それセクハラです。――なぜ男の『嫌』は笑いになるのか

花沢さん、それセクハラです。

……と書くと、おそらく怒られる。

「小学生同士の話だろ」

「アニメにコンプラを持ち込むな」

「『サザエさん』に何を求めているんだ」

その通りである。

花沢さんは小学5年生だし、カツオも小学5年生だ。小学生同士の恋愛ギャグに、会社員向けのハラスメント研修を適用して、花沢さんにコンプライアンス教育を受講させたいわけではない。

でも、僕はどうしても気になる。

カツオが女の子だったとしても、私たちは同じように笑えるだろうか。

男女を逆にした瞬間、だいぶ怖い

『サザエさん』における花沢さんとカツオの関係は、昔から定番のギャグだ。

花沢さんはカツオが好き。

積極的に迫る。

結婚まで匂わせる。

カツオは嫌がる。

逃げる。

それでも花沢さんはめげない。

そして視聴者は笑う。

では、性別だけ逆にしてみよう。

小学5年生の男子が、同級生の女子を一方的に好きになった。

女子は明らかに嫌がっている。

それでも男子は、

「将来は俺の嫁になるんだから」

と繰り返し、逃げても追いかけ、周囲もそれをニヤニヤ眺めている。

これ、普通に怖くないだろうか。

SNSに切り抜きが流れたら、

「女の子嫌がってるじゃん」

「これを恋愛として描くのはまずいだろ」

「ストーカー予備軍みたいで笑えない」

という反応が大量についても、僕はまったく驚かない。

ではなぜ、カツオなら笑えるのか。

「男は女から好かれたら嬉しい」という呪い

たぶん、答えは単純だ。

私たちは無意識のうちに、

男は女から好かれて困ることなどない

と思っている。

だからカツオが嫌がっていても、本気の拒絶として受け取られない。

「またまた、照れちゃって」

くらいの扱いになる。

花沢さんに迫られること自体が、カツオにとって一種の「モテ自慢」のように処理されてしまう。

でも、それって変ではないだろうか。

今の社会では、女性が「嫌」と言っているのに、

「本当は嬉しいんだろ」

「照れてるだけだろ」

と解釈することが危険なのは、かなり共有されるようになった。

だったら当然、

男の「嫌」だって「嫌」である。

男だから異性に好かれれば嬉しい。

男だから性的・恋愛的なアプローチを受けても傷つかない。

男だから多少強引に迫られても被害ではない。

そんなわけがない。

「嫌がる男」は、なぜギャグになるのか

僕は、花沢さん個人よりこちらの方が気になる。

日本のフィクションには昔から、

女性に迫られて困る男性

というギャグがかなりある。

女性が抱きつく。

男性が逃げる。

女性が結婚を迫る。

男性が「勘弁してくれ」と言う。

観客が笑う。

男女を逆転すると、途端に「嫌がっている相手に何をしているんだ」という話になる。

つまり、ここにはかなり露骨な非対称性がある。

女性の性的自己決定権は尊重しなければならない。

これは当然だ。

しかし同時に、

男性にも性的自己決定権がある。

誰を好きになるか。

誰と付き合うか。

誰からの求愛を受け入れるか。

全部本人が決めていい。

女の子から猛烈に好かれたからといって、男の子にはそれを喜ぶ義務などない。

カツオの「NO」は、なぜNOとして扱われない?

ここが一番気になる。

カツオはかなり分かりやすく花沢さんを避けている。

にもかかわらず、その拒絶そのものがギャグになる。

もしこれが、

「女子が嫌がっているのに、男子が何度も迫る」

という構図だったら、現代では「女子のNOを軽視している」と批判される可能性が高い。

ならば、

「男子が嫌がっているのに、女子が何度も迫る」

場合にも、

男子のNOが軽視されている

と言っていいはずだ。

男女平等というなら、ここを非対称にしてはいけない。

「女の嫌がるは嫌」

だけでは足りない。

男の嫌がるも嫌である。

ものすごく当たり前の話なのだが、なぜかこちらはギャグとして処理されがちだ。

花沢さんを責めたいわけではない

念のため繰り返すが、僕は架空の小学5年生をハラスメント加害者として社会的に糾弾したいわけではない。

そもそも花沢さんは、そういうコメディキャラクターとして大人たちによって作られている。

だから、本当に問うべき相手は花沢さんではない。

花沢さんの行動を「女の子から男の子への微笑ましい猛烈アタック」として成立させてきた、私たち大人の感覚である。

もっと言えば、それを現在でもほとんど違和感なく放送できるテレビ側の感覚についても、少しくらい考えていいと思う。

もちろん、「こんな描写を放送するな」と言いたいわけではない。

昔の価値観が残っている作品を消してしまえばいい、という話でもない。

むしろ残っているからこそ面白い。

私たちが昔は笑えたものを、今どう感じるのか。

そこには社会の倫理観の変化がそのまま映る。

フジテレビには、もう少し自覚的であってほしい

『サザエさん』は、単なる昔のアニメではない。

今も地上波で放送され続けている国民的作品である。

だからこそ、

「昔からこういうギャグだから」

だけで終わらせるのではなく、

今この描写を流すと、どんなジェンダー観を再生産するのか

くらいは、制作側が意識していてもいいと思う。

男女を逆転したら問題になる描写が、女性から男性なら笑いになる。

もしそうなら、それは男女平等とは言いにくい。

女性が男性に迫ること自体が問題なのではない。

問題なのは、

相手が嫌がっているのに、その拒絶を軽く扱うことだ。

そして、その原則に男女差はないはずだ。

男性にも「嫌がる権利」がある

男女平等という言葉を聞くと、多くの場合、

「女性を男性と同じように扱おう」

という話になる。

それ自体は必要だ。

でも、男女平等にはもう半分ある。

男性も女性と同じように守られること。

男性にも、異性からの好意を拒否する権利がある。

男性にも、恋愛をしたくない相手から逃げる権利がある。

男性にも、「好かれているんだからありがたく思え」と言われない権利がある。

男性にも、自分のNOをNOとして扱ってもらう権利がある。

だから僕は、あえてこう言いたい。

花沢さん、それセクハラです。

厳密な法律用語としてではない。

現代の感覚で、相手の拒絶を尊重するという意味において。

そしてこれは、花沢さんを責めるための言葉ではない。

むしろ私たち自身に向けた問いである。

次に『サザエさん』を見て、花沢さんから逃げるカツオを見て笑いそうになったら、一度だけ性別を逆転してみてほしい。

女子児童が男子児童から逃げている映像として想像してみる。

それでも同じように笑えるだろうか。

もし笑えないのなら、その違和感こそが答えだと思う。

男の「嫌」も、ちゃんと「嫌」なのである。


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