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短編小説 煙と刻印

ベランダのアルミサッシを引くと、夜のひんやりとした空気と、かすかに湿った匂いが部屋に流れ込んできた。

​「ほな、一服でもしましょか。」

​リビングのソファから立ち上がり、夫が缶チューハイを置いてこちらに歩いてくる。
私がライターを手に取ると、彼はポケットからネイビーの箱を取り出した。

​私の愛煙銘柄は「ハイライト」。
女子っぽさが薄いけど、どうしてもフワフワしたのは苦手だ。
しっかりとした重みと、どこかクラシカルな香りが気に入っている。

対する彼の相棒は「ホープ」。
あのかわいらしいショートサイズの小箱から、無骨で太い一本を引っ張り出す姿が昔から好きだった。

タール数の高い力強い煙草を好むところや、どこか古風な吸い口はお互いによく似ている。

​「ほい、ライター」

「お、サンキュー」

ベランダの小さなベンチに二人並んで腰掛け、火をつける。
先端がぽっと赤い小さな熱を帯び、夜の闇に一筋の紫煙が立ち上った。

ふう、と息を吐き出すと、胸の奥に溜まっていた一日の疲労が煙と一緒に溶け出していく感覚がする。


​彼と出会ったのは七年前のことだ。

職場の喫煙所で、たまたま二人きりになったのがきっかけだった。

当時はお互いまだ少しぎこちなく、沈黙を埋めるように彼は自分の煙草の箱を指さして笑った。

​「『ハイライト』なんですね。俺のは『ホープ』。……なんか、並べるとまさに名曲のタイトルじゃないですか?」

​彼が何を言いたいのかすぐにわかった。
サザンオールスターズのあの有名な楽曲だ。

「ピースとハイライト」


​「ほんとですね。でも、ちょっとベタ過ぎません?」

「いやいや!俺たちのための組み合わせやと思ってビビッと来たんです。絶対、相性バッチリですよ!」

​人懐っこい笑顔でそう言い切る彼の姿に、私の心は一瞬で解きほぐされたのを覚えている。

あの無邪気で誇らしげな表情があまりにも愛おしくて、私は胸の奥がキュッと熱くなるのを感じた。

運命?
いやいや、それじゃ、あまりにチョロ過ぎでしょ。

しかし、その予感通り私たちは付き合い始め、やがて結婚した。

​結婚指輪を選ぶとき、彼が「どうしてもやりたいことがある」と照れくさそうに提案してきたアイデアは、今思い出しても少し笑ってしまう。

​「指輪の内側の刻印、お互いの吸ってる煙草の名前にせえへん?」

​普通ならイニシャルや記念日を入れるのが定番だろう。
宝石店の店員さんも一瞬不思議そうな顔をしていたけれど、私たちは真面目だった。
結果として、互いが吸う銘柄が刻まれ、その隣にひっそりと結婚記念日の日付が並ぶことになった。

​私はこの大事な指輪が傷つくのは嫌だなと思いながらも、家事のとき、仕事のときも、指輪を外し忘れるタイプなのだが、たまに手元をすっきりさせたいときに指輪を外すことがある。

プラチナの輪の内側に刻まれた「Hope」の四文字を目にするたび、あの日、喫煙所で笑い合った彼の顔が浮かび、一人でフッと口元が緩んでしまうのだ。

私にとってこの指輪は、愛の証であると同時に、世界で一番愛おしい彼とつながっている小さな秘密の印だった。

​「今日な、昼間に駅前で煙草吸う場所探すのめちゃくちゃ苦労したわ」

​彼がショートサイズのホープを指に挟みながら、しみじみと呟いた。

​「ああ、やっぱり? どこも撤去されてるもんね」

「おん。指定の喫煙所を探して街中をぐるぐる歩き回ってさ。やっと見つけた思ったら、ガラス張りの狭い部屋に人がすし詰め状態や。なんだか肩身が狭いというか、悪いことでもしてる気分になってくるわな」

​彼の言う通り、​マナーを守って、決められた場所で静かに吸っているだけなのに、一部の路上ポイ捨てやルール違反ばかりが強調されてしまうのはちょっと悲しい。
嗜好品なのだから、もう少しお互いに寛容で、穏やかな風が吹く世の中になればいいのに。

​けれど、世間の風当たりが強くなればなるほど、夫婦で肩を寄せ合って吸うこの一服の時間が、どれほどかけがえのないものかも痛感するのだ。

​旅先を決める時も、食事に行く店を選ぶ時も、私たちの最優先事項は「煙草が吸える場所があるかどうか」。
お洒落なカフェよりも、昔ながらの煙草が吸える喫煙喫茶店を見つけた時の方が、二人で大喜びしてしまう。

世間から少しだけ身を潜めるようにして過ごすその時間が、かえって私たちの距離を縮めてくれているのかもしれない。

​「まあ、ここでゆっくり吸えるのが一番やな」

​煙を空へ吹き出しながら、彼は満足そうに目を細める。

​朝、起きてすぐのぼんやりとした頭を覚ますとき。

夜、お酒を飲みながら今日あったことを報告し合うとき。

そして、言葉よりも近くにいたい夜のあとも。

​どんな瞬間も、私たちのそばには紫煙が優しく漂う。


「ほな、一服でもしましょか。」

​その一言が合図になって、私たちは互いの心に寄り添い、同じ煙をくゆらせる。

私にとって喫煙という行為は、ただの習慣や嗜好の枠を超えて、彼との絆を確かめ合う何よりもロマンティックな儀式なのだ。

​夜風に揺れる煙の向こう側で、彼の横顔をそっと眺める。
指先で小さくなったホープを持ち、目を少し細めて煙をふかす彼のシルエット。

​(やっぱり、世界で一番かっこいいな)

​口に出すと絶対に調子に乗るから言わないけれど、心の中で深く深く頷いた。

「もう一本だけ付き合わん?」

​夜の静寂の中、再び小さな火花が散り、私たちの愛おしい時間の延長戦。

空には上弦の月、揺れる煙が漂う。

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