【掌編小説】『記憶書庫の国(第4話)』
はじめに
本作は、『ムネモシュネ』シリーズのエピソード1(記憶書庫の国)になります。
タイトル
『記憶書庫の国(第4話:集合記憶の塔)』
本文
病院へ向かう前に、シオンは一度宿に戻った。
宿の主人に、塔への入場許可について尋ねると、「審査が通りました。今日の午後なら入れます」と告げられた。
シオンは時計を見た。
今は正午。
エコーとの約束は三時。
それまでの時間で、塔を見学できる。
中央塔へ向かう道すがら、シオンは街の様子を観察した。
三日間この国にいて気づいたことがある。
この国には「変化」がほとんどない。
毎日同じ時間に、同じ人々が、同じ場所を歩いている。
まるで精密な機械のように。
塔の入口で、編纂者ミネルヴァが待っていた。
「旅人シオン様ですね。お待ちしておりました」
ミネルヴァは四十代と思われる女性で、白いローブの上に青い肩章をつけていた。
編纂者の印らしい。
「私がご案内します。どうぞ」
塔の内部は、外観以上に荘厳だった。
入口から螺旋階段が地下へ続いている。
壁は白い大理石で、所々に明かりの結晶のようなものが埋め込まれ、柔らかな光を放っている。
「まず、パンデクト──記憶の書庫──をご覧いただきます」
階段を下りること五分。
広大な空間が現れた。
天井は高く、そこから光が降り注いでいる。
壁という壁が巨大な書架で埋め尽くされ、無数の本が収められている。
書架は何層にも重なり、天井まで続いている。
「すごい…」
シオンは思わず声を漏らした。
「建国以来二百年、すべての記憶がここに保管されています。個人は消えても、経験は永遠に残ります」
ミネルヴァは誇らしげに言った。
書架の一つに近づくと、本の背表紙には番号が振られていた。
「番号1〜番号10000」
「番号10001〜番号20000」
…延々と続く。
「これらはすべて、個人の記録書ですか」
「そうです。奉納された原本は、すべてここに保管されます。そして編纂されたものが、共有書として配布されます」
ミネルヴァは別の区画を指差した。
「あちらが編纂室です」
編纂室では、十数名の編纂者たちが静かに作業していた。
それぞれ個人の記録書を読み、ノートに何かを書き留めている。
「編纂の過程を説明しましょう」
ミネルヴァは一人の編纂者の横に立った。
「例えば、これは昨日奉納された『初恋の記憶』です。編纂者は記録書を読み、感情的な部分を抽出します。そして、文法を整え、個人名を削除し、普遍的な表現に置き換えます」
編纂者の手元を見ると、元の記録書にはこう書かれていた。
「彼女の名前はリラ。赤い髪で、笑うと目が細くなる。初めて話しかけた日、僕は心臓が口から飛び出しそうだった」
編纂者はこれを、こう書き換えていた。
「初恋の対象者。印象的な外見的特徴。初対話時、強い緊張と高揚感を経験」
シオンは眉をひそめた。
「すべての個性が、削られている」
「個性ではありません。主観です」
ミネルヴァは訂正した。
「『赤い髪』は客観的事実ですが、『美しい赤い髪』は主観です。『心臓が飛び出しそう』は比喩で、正確ではありません。私たちは正確さを追求します」
「しかし、その正確さは、生きた感情を殺していないか」
ミネルヴァは首を傾げた。
「感情は残ります。『強い緊張と高揚感』がそれです。ただ、誰もが理解できる形に翻訳されるだけです」
シオンは別の編纂者の作業を見た。
こちらは「悲しみの記憶」を扱っていた。
「息子が死んだ。戦争で。遺体も帰ってこなかった。夜ごと、息子の声が聞こえる気がする。『母さん、寒いよ』と」
これが編纂されると、こうなる。
「近親者の死別。戦争による喪失。幻聴を伴う悲嘆反応」
シオンは息を呑んだ。
「これは…あまりにも…」
「冷たい、と思われますか」
ミネルヴァは穏やかに言った。
「しかし、個人の悲しみを個人の中に閉じ込めたままでは、誰も救われません。これを普遍化し、共有することで、『あなただけではない、私たちも同じ悲しみを知っている』と伝えられるのです」
ミネルヴァは共有書の棚へ案内した。
「こちらが、完成した共有書です」
シオンは一冊手に取った。
「第五〇巻:悲しみの記憶集」。
ページを開くと、無数の悲しみが、美しい文章で綴られていた。
「喪失、別れ、後悔、絶望──すべての悲しみがここにあります。誰かがこれを読めば、『自分だけではない』と知ることができます」
確かに、文章は美しかった。
文学的ですらあった。
しかし、シオンは感じた。
これは「剥製」だ。
生きた悲しみではなく、標本化された悲しみ。
「もう一箇所、お見せしたい場所があります」
ミネルヴァは螺旋階段をさらに上り、塔の最上階へ向かった。
最上階には、特別な部屋があった。
部屋の中央に、ガラスケースが一つ。
その中に、一冊の古い革装丁の本。
「これは、建国者たちの最初の記録書です」
シオンはガラスケースに近づいた。
ミネルヴァが鍵を開け、ケースを開いた。
「特別に、読むことを許可します」
シオンは慎重に本を手に取った。
最初のページを開く。
そこには、こう記されていた。
「我々は戦争を生き延びた。しかし、愛する者たちは戻らない。妻、夫、子ども、親、友──すべてを失った。なぜ戦争が起きたのか。それは、『私』があったからだ。『私の正義』『私の神』『私の土地』──すべてが『私』から始まった。ならば、『私』を消せば、二度と争いは起きない。我々はここに誓う。もう二度と、『私』のために血を流さない」
シオンは次のページを捲った。
「だから我々は、記憶を共有する。『私の経験』ではなく『私たちの経験』にする。個人の主観を消し、客観的な真実だけを残す。そうすれば、誰もが同じ世界を見る。誤解も、対立も、なくなる」
さらに次のページ。
「これは犠牲だ。個人の自由という犠牲。しかし、それに見合う価値がある。平和という価値が」
最後のページに、こう記されていた。
「未来の世代へ。もし私たちの選択が間違っていたと思うなら、許してほしい。しかし、私たちはこれしか思いつかなかった」
シオンは本を閉じた。
善意だった。
すべては、善意から始まった。
「建国者たちの苦悩が、伝わりますか」
ミネルヴァは静かに尋ねた。
「ああ」
「彼らは正しかった。この二百年、私たちの国で戦争は起きていません。誰も孤独ではありません。すべてを共有しています」
シオンは窓の外を見た。
白い街が、整然と広がっている。
「しかし、個人は消えた」
「個人は消えていません。ただ、『私たち』の一部になっただけです」
ミネルヴァの声には、一点の疑いもなかった。
シオンは時計を見た。
午後二時半。
そろそろ病院へ行かなければ。
「案内、ありがとう」
「どういたしまして。何か質問はありますか」
シオンは少し考えた後、尋ねた。
「あなた自身は、記憶を奉納したことがあるのか」
「もちろんです。定期的に奉納しています。最後に奉納したのは、三ヶ月前です」
「何の記憶を?」
ミネルヴァは微笑んだ。
「覚えていません。奉納したのだから」
【続】
あとがき
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本作は、『ムネモシュネ』シリーズのエピソード1(記憶書庫の国)になります。
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