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真夏の昼の夢〜【1980年代】あの日にタイムスリップ〜空港と白いワンピースの彼女

梅雨が明けて、例年のごとく猛暑日が続く。
取引先との打ち合わせを終え、街路樹のある歩道を抜けて、クルマを停めたオフィスビルの駐車場へ向かう。
都会の昼下がりの日差しとアスファルトの焼ける匂いに妙な懐かしさを感じた。
この懐かしさはいったいどこから来るのだろうか。

途中のコンビニで、小さい容器のミネラルウォーターを買うが、昼食はまだとっていない。
午後1時からオフラインの打ち合わせがある日はいつもそうだ。
必然的に世間のランチタイムは移動時間となり、会議のあとはたいていラストオーダーが終わっている時間である。

どのみち慌ただしく一人で食事をとるのは苦手な体質である。
それならば、どこかゆっくりできるところに移動してから考えようと、結局昼食抜きになることが多いが、私の身体は燃費が良い方なのだ。

それよりもクルマを早く出さないと駐車料金が嵩んでしまう。
東京都内のオフィスビル駐車場の相場は、最近は30分400円。
それでもまだオフィスビルはマシな方である。コロナ渦を境にコインパークはどこも足元を見たようなぼったくり価格となってしまった。
上限設定がある場合でも、瞬く間に最大料金に達してしまうか、最悪のケースは10分500円を超えて上限も無しである。

だったら電車で行けよというツッコミが入りそうだが、クルマ移動には理由がある。
クルマは私にとってクリエイティブな空間なのである。
思考を巡らせたり、何かの閃きを得るのは、一人でクルマに乗って移動をしている時が多いのだ。
その間は、PCやスマホを触らないので、デジタルデトックスの時間でもある。

実際には、意識はほとんど運転に集中していてるわけだが、だからこそ潜在意識を引き出しやすいのだろうと思う。
クルマは私の脳内を整理し、ストレスから解放させてくれる書斎のようなもので、高級ホテルのロビーラウンジやお気にりのカフェと同様に、なかなか軽視できない空間なのである。

なお、クルマをクリエイティブな空間とみなす場合でも、クルマのグレードは無関係だ。
高級車である必要はなく、室内の装飾や付加物はドラレコ(本当はつけたくない)以外は一切無くシンプルに、綺麗に掃除さえしておけばそれで十分である。
むしろ軽トラのようなプリミティブなクルマの方が良いくらいだ。

私は、新しく快適なオフィスビルの機械式駐車場を出て、首都高の最寄りのインターへ向かった。

都会の真夏の昼下がり、アスファルトの焼ける匂い、首都高の日差し…。
同じような夏のシーンはこれまで何度もあったはずだ。
しかし、今日だけは不可思議な心情だ。ノスタルジックな感覚に支配されている。

首都高をドライブしていたら、まるでタイムスリップでもしたかのようにある光景が蘇ってきた。

◼️

それは、1980年代も終わりに近づいたある夏の日の記憶であった。

その頃の私は、大学在籍中に音楽関係の仕事が忙しくなっていた。
私にとっては望み通りの展開で、大変喜ばしいことだったが、その分授業をすっぽかして、圧倒的に単位が足りなくなってしまっていた。

様子を見て一旦休学か、どのみち4年間で卒業するのは不可能だった。
一方で、週1〜2回の安定収入のアルバイトも並行して続けていて、本社の部長さんから、卒業したらそのまま就職してほしいとも言われていた。
音楽なんて得体の知れない仕事など、どこまでできるかは未知数である。
その時は、夢を追いながらも、並行して大卒を目標に講義にはできるだけ頑張って出るようにしていた。

あの日は、たまたまクルマで大学に行ったのだった。
いつもは電車で通っていたのだが、前夜のスタジオ作業でバテ気味だったか何かだろう。暑さで最寄りの地下鉄に乗りたくなかったのだと思う。

記憶では前期試験前の7月上旬のことだったと思う。一人寂しく受けた二限目の講義が終わって、講堂で近くの席に一人で座っていた女の子に、休んだ日のノートのコピーをお願いしようと声をかけた。
私はどちらかと言えば積極的な方ではなかったが、グループの中に割って入って声をかけるより、一人でいる学生の方がまだ声をかけやすいものである。それもどうせなら女性にとマイルールを決めていた。彼女とは以前から顔見知りではあるが、話すのは初めてだった。

彼女は、バブル期のトレンディーなケバいスタイルでブランド物を持つようなキラキラした所謂「一軍女子」とは違って、ナチュラルで空気のような透明感のある雰囲気。白いワンピースが似合っていた。

そして、彼女のノートを開くと、細部まで几帳面に美しく書き込まれていて、完璧そのもの、まるで芸術作品を見ているようだった。

だから私の中では、高校生の頃からノートを借りるなら女子と相場が決まっているのだ。
ーー令和の時代にこれを言うと、過剰なジェンダーレス推進派には反感をかうのかもしれないが、全体的に女子の方がノートが綺麗なのは事実なのだから仕方がない。もちろん例外も多く知っている…。

ノートの美しさへの感動を伝え、デザートつきランチを奢るのを条件にキャンパス周辺のコピー専門店につきあってもらったが、結局オフィス街でもある周辺は混んでいて、お互い三限目以降の授業はなかったので、気分転換にドライブでもして羽田空港で広大な空と飛行機でも眺めながらランチをしようということになった。

大学脇の道路は、形骸化して暗黙の了解となっている違法駐車車両でいっぱいだ。
その列にただずむ、街中では当時流行の白いエアロディッシュホイールを履き(峠ではSタイヤに5本スポーク)、鮮やかなイタリアンレッドに再塗装された私のホンダ「無限CR-X PRO.」。周囲のクルマに比べて目を惹く派手さに、彼女は軽く驚いたようだ。

もうちょっと普通のクルマを想像していたようで、現代だったら「恥ずかしくて乗れない」と女性に不評だったと思うが、カワイイと言って喜んで乗ってくれた。
ーーしかし、近年、年末から正月になると表参道〜青山辺りに出没して、街中でアクセルを煽っているフェラーリやランボルギーニたち。「無限」のマフラーの奏でるサウンドは、それと同等かそれ以上の爆音だったのだが、そのクルマがカワイイとは…。

そう言えば、あるおばちゃんから「あなた赤なんて女の子のクルマみたいね〜」とディスられたことを思い出した。
私の見た目も、所謂昭和時代のステレオタイプの男っぽさがなく、着痩して弱そうに見えるから勝ち誇って私を下に置きたかったのだろうと思われる。同調圧力の好きな日本人の底意地の悪さをよく感じる時代だった。

まあいずれも男から見れば「レーシーでカッコいい」のはずなのだが…。


話は戻って、当時は現代の夏ほどの猛暑でもなかったはずだが、やはり夏であることには変わりない。
昼下がりの都会の日差しとアスファルトの焼ける匂いは、あの日の出来事と一緒に記憶されていたようだ。

午後一番の暑さの中、ショップのバーゲンセールで手に入れた安物のバケットシートに、彼女は、ちょこんと体育座りのように膝を抱えて座ったのが印象に残っている。
当時は量産車であっても、スポーツモデルは、体育座りができるほどフロアからの座面位置が低かったのだった。

キーを回してエンジンを始動する。野太く心地の良いサウンドが響き渡る。エアコンを全開にして、カーオーディオにカセットテープを押し込み、クラッチを踏んでギアを1速に入れ、クルマを路肩からスタートさせた。

しばらく一般道を走り、首都高環状線から1号羽田線に向かう。
まだレインボーブリッジはできていなくて、浜崎橋ジャンクションから見える東京湾の景色は今とはずいぶん違うが、ウォーターフロントの景色はちょっとした日常からの解放感がある。

◼️

平日の首都高の昼下がりの日差しはあの時と同じだ。
私は当時なかったレインボーブリッジを渡らずに、あの日と同じ1号羽田線を辿ってみることにした。

あの日の私は、表面上では冷静を装ってステアリングを握り、彼女と会話を楽しんでいたが、脳内では、ひと夏のアバンチュールのような妄想でいっぱいだった。羽田空港まで続く、夏の日差しがそうさせたのだ。

それにしても、なぜ行き先が羽田空港だったのだろうか?
時はまだ1980年代、今のように気軽に出かけられる洒落たスポットがなかったからだ。
その羽田空港も今とは大違いでまだ第1ターミナルしかない時代である。

空港の良さは、今も昔も変わらず、大きな空間の建物と、喫茶ラウンジやレストランの窓から見える広大な敷地で、楽しそうな旅行者と飛行機の離着陸が非日常感を味あわせてくれて気分が上がる高い波動の場所である。

そこでアフタヌーンティーまでの時間を過ごして、彼女の住んでいる都内の某有名団地まで送り届けてその日は終了だった。
嘘か誠か、家が厳しく何もない日は門限が19時だと言うのだ。
それを超える場合は事前申請しなければいけないようだった。
オールでディスコで遊ぶ女子大生がいる一方で、一部では現代よりもずっと厳格な「昭和の価値観」が色濃く残っていた。

その後はキャンパス内で会えば図書館で一緒にレポートを書いたり、講義が終わると映画くらいは観に行ったりもしたが、バブル期のど真ん中でありながら、お酒が入ることもなく、秋が深まっても友人のまま特に関係が発展することはなかった。

携帯電話どころかポケベルですら一般的でない時代。
お互いの家に電話することもなく(門限19時の家庭に電話する勇気はない笑)キャンパスで会った日だけ、まるで中高生のようなデートごっこみたいなことをしていたのを思い出す。
彼女がどう思っていたのかはわからないが、友達以上恋人未満のような微妙な関係は、それはそれでお互いにとって心地が良かったのかもしれない。

そんなキャンパスライフが少し続くが、私は業界にどっぷり浸かって、仕事が過酷に忙しくなり、彼女とは自然消滅、友人たちとも自然消滅、留年を繰り返し、途中病にも倒れ、最終的には大学を中退することになった。全てを断ち切って、このまま音楽の世界で行くと決断したのだ。

ひとつ心残りなのは、大学教授には様々なタイプの変人が多く、中には陰謀論者もいて、私にとって大学の講義は非常に興味深く面白いものだった。にもかかわらず、結局私の最終学歴は高卒となってしまったのだ。今でも親には申し訳ないことをしたなと思っている。

◼️

その日、私は首都高を降りると、羽田空港が一望でき、第3ターミナル近くにある天空橋の施設にクルマを停めた。
デッキから広大な空と飛行機を眺めながら、真夏の昼の夢の続きを見ていたのだった。

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