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石ころでやる存在論哲学(おまけつき!) | TORII

これを見てください。
 


石ころがありますね。
単なる石ころと思いきや………




 

   
箸置きだった。
 
しかし箸置きってすごい名前ですよね。
箸が置けさえすれば何だっていい。
小石、木片、陶片...何だって箸置きになる。
何なら大き目の尿路結石とかでも。
…ここでハイデガー『存在と時間』を紐解いてみましょう。

1. 道具の「〜のためのもの」構造
Zeug ist wesenhaft »etwas, um zu…«. Die verschiedenen Weisen des »Um-zu« wie Dienlichkeit, Beiträglichkeit, Verwendbarkeit, Handlichkeit konstituieren eine Zeugganzheit.

道具というものは、本質的に「○○を目的とした何か」だ。道具の全体性は、奉仕可能性・貢献性・使用可能性・操作可能性といった、「○○を目的とした」のバラエティによって構成されている。

Sein und Zeit, §15, H.68

2. 使うほど道具として顕わになる
[…] je weniger das Hammerding nur begafft wird, je zugreifender es gebraucht wird, um so ursprünglicher wird das Verhältnis zu ihm, um so unverhüllter begegnet es als das, was es ist, als Zeug. […] Die Seinsart von Zeug, in der es sich von ihm selbst her offenbart, nennen wir die Zuhandenheit.

ハンマーというものを凝視することが乏しくなればなるほど、それを把握・使用すればするほど、使い手とハンマーの関係が始原的になればなるほど、より隠すところなくそれそのもの―道具―に遭遇する。
そういった、道具が所有するあり方―道具のほうから自らを開示する―それを「手許存在」と呼ぶ。

同, §15, H.69

 
道具として使うようになると、それそのものを見なくなる。
しかし、この石ころを無くしたときには「あれ~?どこいった~?」などと呼びかけるでしょう。

道具が失われるとき
Imgleichen ist das Fehlen eines Zuhandenen, dessen alltägliches Zu-gegensein so selbstverständlich war, daß wir von ihm gar nicht erst Notiz nahmen, ein Bruch der in der Umsicht entdeckten Verweisungszusammenhänge. Die Umsicht stößt ins Leere und sieht erst jetzt, wofür und womit das Fehlende zuhanden war. Wiederum meldet sich die Umwelt.

何らかの手許存在が失われているのに気付いたとき、日常生活においてそこにあり続けていたということは、それに全くもって意識を向けてこなかったという意味で明白であるのに、その喪失は、注意深さ一般が明らかにしてきた参照文脈に発生した裂け目である。わたしたちの周到さは空白であることに突き当たり、その喪失物がかつて何とともにあり、そして何のために手許にあったのかということを今初めて認めるのである。外的世界は、改めて自ら自身を通告する。

同, §16, H.75




さて次はこれを見てください。

 
箸置きが二つありますね。
二名分でしょうか?
 
いや違うんです。



 

 
箸ブリッジの支柱だったのです!!!






再びこの画像を見てください。

 
この間に箸が見えませんか…?
 
この心理なら、ジンメルです。
代表作『橋と扉』の一節がドンピシャです。

「分離している」とは
Nur für uns sind die Ufer des Flusses nicht bloß außereinander, sondern »getrennt«; wenn wir sie nicht zunächst in unseren Zweckgedanken, unseren Bedürfnissen, unserer Phantasie verbänden, so hätte der Trennungsbegriff keine Bedeutung.

わたしたちにとってのみ、その河の両岸は単にお互いに離れているというだけではなく、まさに「分離」されている; 目的思考や必要性・想像において、この両岸を結びつけてなかったと仮定してしまうと、この分離という概念は一切の意味をなさないだろう。

Georg Simmel, „Brücke und Tür", Der Tag. Moderne illustrierte Zeitung Nr. 683, Morgenblatt vom 15. September 1909, Illustrierter Teil Nr. 216, S. 1–3


分離していると見えてる時点でつなげている。
いやぁ、肝に銘じたい名言ですね。




くわえて、ここで重要なことが起きています!
箸置きが支柱になったのみならず、なんと箸が橋になっています!!
「箸ブリッジ」という全体認識が、要素の意味を変えるんです!!!
ここはルーマンを召喚してみましょう。

1.要素とシステムの関係
Elements are elements only for the system that employs them as units and they are such only through this system. This is formulated in the concept of autopoiesis.

要素とは、その要素を個物として用いるシステムのためのみの要素であり、要素はシステムを通じてのみ要素である。これは、オートポイエーシスの概念において定式化されている。

Social Systems, trans. Bednarz & Baecker, p. 22

2.創発とはなにか
Thus emergence is not simply an accumulation of complexity, but rather an interruption and new beginning in the constitution of complexity.

そうすると、創発というのは単なる複雑性の足し算ではなく、というよりむしろ、複雑性の構成においてそれは中断であり新しい始まりなのである。

同 p. 23

 
“箸置きと箸”+”石”=”箸ブリッジ”ではありません。
「箸置きと箸」という既存の関係が、「箸ブリッジ」という新たな関係の構成によって組み替えられた。つまり、「箸置きと箸」から「箸ブリッジ」への移行とは、同じ物体の単純な足し算ではなく、同じ物体が別の意味構成のなかで別様に作動し始めることなのです。





さて、冒頭に戻りましょう。
 

 
この画像を見て、何を思い出しましたか?
あなたとこの石ころ(の画像)は特別な関係を切り結びました。
そんなあなたにフッサール『デカルト的省察』をどうぞ。

Diese meine Aktivität der Seinssetzung und Seinsauslegung stiftet eine Habitualität meines Ich, vermöge deren mir nun dieser Gegenstand als der seiner Bestimmungen bleibend zu eigen ist. Solche bleibenden Erwerbe konstituieren meine jeweilige bekannte Umwelt mit ihrem Horizont unbekannter Gegenstände, das ist noch zu erwerbender, im voraus antizipiert mit dieser formalen Gegenstandsstruktur.

この、あるということを位置付け説明する私の活動は、私の自我の習性を確立する―この客体はいま永続的にそれ自身の諸規定という客体として、私自身のものであるこの習性によって。
その永続する獲得は、わたしのその都度の既知の環世界を構成する―まだ見ぬ客体の地平とともに―それは未だ獲得される方向にあり、この形式的な客体構造によってあらかじめ予料されている、客体の地平である。

Cartesianische Meditationen, §33(Husserliana I, S. 102 / Meiner PhB 644, S. 68)

 
これから先、この画像を見れば、あなたは石ころをめぐる存在論哲学に立ち返ることができます。

Solange sie für mich geltende ist, kann ich auf sie wiederholt „zurückkommen" und finde sie immer wieder als die meine, die mir habituell eigene.

それがわたしにとって現行である限り、わたしは繰り返しそれに「回帰する」ことができ、私自身のものとして、習性的な私自身のものとして、繰り返しそれを見つけることができる。

同 §32(Husserliana I, S. 101 / Meiner, S. 67)

 
 
 
 
 
 
  
 




おまけ
「石ころでやる理論社会学」


なんと理論社会学までできちゃう!!お得ですね!!!
 
―時は流れ、石ころを箸置きとして使うのにも慣れました。
家族もみんなそれを受け入れ、箸置きについて言及することすらありません。
あるときあなたはこう言います。
「…これって箸置きじゃないよね。ちゃんと箸置き買った方がいいんじゃない?」
 
見てください、この発言。
 
「「「これって箸置きじゃないよね」」」
 
箸置きとして完璧に機能しているものを指して、「箸置きじゃない」と言っている。
一体この発言は何を問題としているのか。
これは本物の箸置きかどうか、ですね。
当たり前の話です。
ここで、これまでの問題と併せて整理してみましょう。
 
 
これまでの問題:石ころ/箸置き(=機能するか、しないか)
新しい問題:本物の箸置き/代用品(=正統か、間に合わせか)
  
あれ?????
区別がすり替わっているんです。
石は全く変わっていません。機能も何一つ変わっていません。変わったのは、当てられた線だけ。そして新しい線を当てた途端、同じものが「箸置きではないもの」になった。
これもルーマン案件です。

1.観察とはなにか
Observation is any operation that makes a distinction; thus it is the basic operation of understanding.

観察とは区別を作りだすあらゆる処理だ; そうであるからして観察は理解の基礎的な処理である。

Social Systems, p. 73


2.差異は作り出されるものである
On the whole, meaning is thus a processing according to differences, indeed, according to differences that are never pre-given as such but rather acquire their operative applicability […] only out of meaningfulness itself.

全体として見れば、意味というものは差異をめぐるプロセッシングであり、諸差異―それはそのようなものとして予め与えられたものではなく、むしろ意味性そのものからのみ処理的適用可能性を獲得する。

同 p. 66

 
違いは意味性からのみ作り出される。
日々是レトロニム。
 
 
 
 
実はこの発言、タイミングがめちゃくちゃ大事です。
 
家族全員が受け入れ、誰もそれについて話さなくなり、完全に日常に埋め込まれたその後で、はじめて「これって箸置きじゃないよね」が出てきた。
石が箸置きとして扱われ続けたこれまでがあるからこそ、それを「正統/代用」の軸で評価する軸が生まれた。誰も箸置きとして使っていなければ、「これって箸置きじゃないよね」という発話は上記のような意味をなしません。
 
ルーマンはこう定式化しました。
コミュニケーションがコミュニケーションを産出する連続体が、社会システムであると。

1.コミュニケーションがコミュニケーションを産出する
Under these circumstances, the basal process of social systems, which produces their elements, can only be communication.

これらの状況のもと、社会システムの基盤的プロセス―それは、社会システムの要素を生産する―はコミュニケーションでのみありうる。

Social Systems, p. 138

2.社会システムは連綿と続く
Just as the self-reproduction of social systems by communication's triggering further communication will continue if nothing stops it […]

ちょうど、コミュニケーションが追加のコミュニケーションを引き起こすことによる社会システムの自己産出は続いていくだろう、何かがそれを止めない限り。

同 p. 218

石ころを箸置きとして使い続けるというコミュニケーションに乗っかることで、「正統/代用」を問題とするコミュニケーションが産まれた。そしてまたコミュニケーションは続くでしょう。
  
 
 
 
 
  
 

おまけのおまけ
「巨大箸ブリッジ見物のチャンス!!!」


なんと!2026年9月現在、巨大箸ブリッジを生で観覧できます!

李禹煥さんの「関係項」シリーズ。
いやぁ、でかいですね。
さすが箸ブリッジ界の巨匠です。
よく見ると、李さんの箸は金属製ですね。韓国出身だからでしょうか。
ちなみに李さんの大学時代の卒論テーマは「ハイデガーを通したニーチェ論」とのことです。
ちなみにわたしの卒論テーマは「ドッグランにおける飼い主間のコミュニケーション」です。
 
 
 
 
…最後に一言。
 
 
 
 
 
 
箸で遊ぶな!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 
 
 
 
 

参考文献・ウェブ記事
・Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag.
・Georg Simmel, „Brücke und Tür"
in: Der Tag. Moderne illustrierte Zeitung, Nr. 683, Morgenblatt vom 15. September 1909, Illustrierter Teil Nr. 216, S. 1–3.
・Niklas Luhmann, Social Systems
trans. John Bednarz Jr. with Dirk Baecker, Stanford: Stanford University Press, 1995.(※独語原典 Soziale Systeme,Suhrkamp, 1984. は未参照のため、本記事の引用は英訳版に拠る)
・Edmund Husserl, Cartesianische Meditationen. Eine Einleitung in die Phänomenologie
hrsg. von Elisabeth Ströker, Felix Meiner Verlag, 2012.(原典テキストは Husserliana, Band I, Martinus Nijhoff Publishers,1963に依拠)
※本文で引用している上記ドイツ語・英語文献からの日本語訳は、全て筆者による。
※ドイツ語から英語への翻訳および訳語・訳文の検討において生成AI(Claude)を使用している。
・「作らないこと」で現代に問いかけるもの – 美術家・李禹煥
Text:ぷらいまり。/Photograph:Kei Matsuura(STUDIO UNI)/Edit:Seiko Inomata(QUI)、QUI, 2026年8月27日公開
https://qui.tokyo/art-design/lee-ufan
・李禹煥 オーラル・ヒストリー 第2回
聞き手:中井康之、加治屋健司, インタビュー実施日(2008年12月19日)/書き起こし:友枝望、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
https://oralarthistory.org/archives/interviews/lee_u_fan_02/



(文: TORII )


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