徳川幕府と石高と鎖国とGDP
「加賀百万石」
歴史に詳しくない人でも、一度くらいは聞いたことがある言葉ではないでしょうか。
江戸時代の大名は、よく「親藩・譜代・外様」に分けて説明されます。そのため、徳川家に近い親藩が最も格上で、次が譜代、関ヶ原前から徳川家に従属していたわけではない外様大名は一段低い――そんな印象を持ちがちです。
しかし、江戸時代の大名社会はそれほど単純ではありません。
家柄や官位、幕府での役職、将軍との関係などとともに、非常に大きな意味を持ったのが「石高」でした。
なぜでしょうか。
石高とは、単なる米の収穫量ではありません。
米がどれだけ取れるかということは、その土地がどれほどの人口を養い、どれほどの税を集め、いざ戦となればどれほどの兵を動員できるかということにつながります。
つまり乱暴に言えば、
石高=経済力=軍事力
だったのです。
その象徴が、外様大名でありながら「加賀百万石」と称された前田家です。
前田家は徳川家の一門ではありません。それでも百万石を超える巨大な経済力を背景に、幕府からも決して軽視できない存在でした。
ちなみに東京の小石川後楽園は、水戸徳川家の江戸屋敷に造られた庭園で、加賀前田家の屋敷跡として有名なのは現在の東京大学本郷キャンパス周辺です。赤門はその名残ですね。
さて、徳川家康が天下を統一すると、日本の土地は幕府領や大名領などとして配置され、戦国時代のように隣国を攻め取って領土を広げることはできなくなりました。
ここに、戦国時代とはまったく違う問題が生まれます。
領土を増やせない。
では、大名がさらに力をつけようと思えば、どうするでしょうか。
一つの答えが「商い」でした。
領地そのものを広げられないのであれば、領地の外から富を持ってくればいい。とりわけ魅力的だったのが海外との交易です。
伊達政宗が支倉常長ら慶長遣欧使節をヨーロッパへ送り出した背景にも、宣教師との関係だけではなく、海外との通商を開こうという狙いがありました。
九州ではさらに早く、大村純忠らキリシタン大名がポルトガル貿易と深く結びつきました。薩摩藩は琉球王国を支配下に置き、中国を含む東アジア交易の利益を取り込んでいきます。
戦国時代が終わっても、大名たちの「国を富ませる競争」まで終わったわけではなかったのです。
ここで幕府が進めたのが、海外渡航や貿易に対する厳しい統制でした。
もっとも、当時の人々がこれを「鎖国」と呼んでいたわけではありません。そして日本が完全に世界へ扉を閉ざしたわけでもありません。
長崎では中国やオランダ、対馬藩を通じて朝鮮、薩摩藩を通じて琉球、松前藩を通じてアイヌとの交易や外交関係が続いていました。
ですから「鎖国」というより、
海外との窓口を幕府が管理する体制を作った
と考えた方が実態に近いでしょう。
ここが重要です。
もし諸大名が自由に海外貿易を続けていたらどうなったでしょう。
ある藩が海外貿易で莫大な利益を得る。その金で鉄砲や火薬、船をそろえる。さらに外国との独自の外交関係まで築く。
石高という国内の物差しを超えて、突然巨大な力を持つ藩が現れる可能性があります。
幕府から見れば、これは見過ごせないことでしょう。幕末には実際にこれが起こった結果、明治維新が起こりました。
幕府による海外交流の統制には、キリスト教禁制や外交秩序の構築など、さまざまな理由がありました。しかし結果として、諸藩が海外貿易によって独自に巨大な富と軍事力を蓄えることを難しくしたことも確かです。
徳川幕府は、戦争に勝ち続けたから二百六十年以上続いたのではありません。
戦争を起こせるほど一つの勢力が突出しにくい仕組みを作った。
そこに徳川政治の巧妙さがあったのではないでしょうか。
そして、この「経済力と軍事力」の関係は、決して江戸時代だけの話ではありません。
現代では石高の代わりにGDPがあります。
世界各国の軍事力を見ても、巨大な軍事力を長期間維持するには、それを支える経済力、産業、技術、エネルギー、そして貿易が欠かせません。軍艦も戦闘機もミサイルも、結局は国家の経済力の上に立っています。
日本でも安全保障環境の変化を受け、防衛力の強化が進められています。政府は令和7年度に、防衛力強化を補完する関連経費まで含めてGDP比2%水準を前倒しで措置したと説明しており、令和8年度予算案でも防衛力整備計画対象経費として8兆8,000億円以上が計上されています。
ただし、数字を増やせば安全になるわけでもありません。
防衛省自身も「金額やGDP比の割合ありきではなく、大事なのは防衛力の中身」としています。
江戸時代の「百万石」という数字も、現代の「GDP比○%」という数字も、その向こう側にあるのは、国家が実際にどれだけの力を持ち、それをどのように使うのかという問題です。
徳川幕府が恐れたのは、単に大名が土地を持つことではありません。
富が力へと変わり、その力が既存の秩序を揺るがすことでした。
石高から貿易へ。貿易から軍事力へ。
二百六十年の泰平を振り返るとき、「鎖国」という古びた言葉の向こう側に、経済と安全保障を一体として考えた徳川幕府の国家戦略が、ぼんやりと浮かび上がってくるようです。
