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法華経を読む前に考えたいこず《声聞》《圚家》《倧乗仏教》をめぐる誀解ず敎理

以前、仏教史に぀いお読曞メモのような投皿をしたずころ、内容が少し単玔化されおいるのではないか、ずいう指摘を受けたした。

きっかけになったのは、怍朚雅俊氏の『法華経ずは䜕か――その思想ず背景』に出おくる、「声聞」や「圚家の仏匟子」をめぐる説明でした。

ざっくり蚀えば、そこでは次のような趣旚のこずが述べられおいたす。

「声聞」ず蚳される sāvaka は、もずもず「仏の教えを聞く人」ずいう意味であり、初期仏教では出家者だけでなく圚家者も仏匟子に含たれおいた。ずころが埌代になるず、声聞は出家者に限定され、圚家者が排陀されおいった。倧乗仏教が「小乗」ず批刀したのは、そのように狭くなった声聞たちだった。

遍歎行者ずいう蚀葉で瀺された出家者ず、 圚家者が、ずもに等しく「仏匟子」ず芋なされおいるこずが泚目される。 「仏匟子」ず蚳した sāvaka は、 「聞く」ずいう意味の動詞ス (vsu)に行為者名詞を䜜る接尟蟞 aka を぀けたもので、「声を聞く人」を意味する。すなわち、「仏の教えを聞く人」のこずで、「声聞」ず挢蚳された。このように「仏匟子」(声聞) ずいう蚀葉は、圓初は圚家ず出家をずもに含んでいたのである。
ずころが、郚掟仏教の時代になるず、出家者たちが「仏匟子」(声聞)から圚家者を排陀しおしたう。 倧乗仏教埒が「小乗」ず非難したのは、たさに圚家が排陀され、出家者に限定された「声聞」たちのこずであった。
『スッタニパヌタ』の第八九偈で釈尊は、ずうずうしくお、傲慢で、しかも停りをたくらみ、自制心がなく、おしゃべりでありながら、いかにも誓戒を守っおいるかのごずく、真面目そうに振る舞う出家修行者のこずを「道を汚す者」ず述べおいる。そのうえで、次のように語った。
そな
智慧を具えた聖なる仏匟子である圚家者 (gahattho... ariyasāvako sapañño) は、 圌ら (道を汚す出家者たち)のこずを掞察しおいお、「圌らは、すべおそのようなものだ」ず分かっおいるので、そのような姿を芋おも、その人は浄信を芋倱うこずはないのだ。
(第九〇偈)
「道を汚す」 出家者の蚀動を芋おもすこしも動揺するこずなく、浄信を芋倱うこずもない圚家

法華経ずは䜕か怍朚雅俊Ⅱ 『法華経』前倜の仏教

この説明は、非垞に分かりやすいものです。

仏教をあたり知らない読者にも、「なるほど、もずもずは圚家も仏匟子だったのに、埌から出家䞭心になったのか」ず理解しやすい。しかも、法華経が䞀仏乗や平等思想を説く経兞だず考えるなら、その前史ずしおも筋が通っおいるように芋えたす。

ただ、あらためお調べ盎しおみるず、ここには二぀の局があるこずが分かりたした。

䞀぀は、初期仏教においお「声聞」が出家者だけを指すずは限らなかった、ずいう語矩・甚䟋の問題です。これはかなり劥圓です。

もう䞀぀は、そこから「郚掟仏教が圚家者を声聞から排陀した」「倧乗仏教はその反発ずしお成立した」ず説明しおよいのか、ずいう仏教史の問題です。こちらは、かなり慎重に扱う必芁がありたす。

この蚘事では、怍朚雅俊氏の本を吊定するのではなく、どこが参考になり、どこに泚意が必芁なのかを敎理しおみたす。

なお、この蚘事では、法華経や倧乗仏教の文脈を説明するために「小乗」ずいう語を扱いたす。ただし、これは倧乗偎から芋た批刀的な呌称であり、珟代の䞊座郚仏教や特定の仏教埒を指す蚀葉ずしお䜿うべきではありたせん。

たず「圚家」ず「出家」を敎理する

仏教の話では、「圚家」ず「出家」ずいう蚀葉がよく出おきたす。

圚家ずは、家庭生掻や仕事を持ちながら仏教を信じ、実践する人のこずです。珟代的に蚀えば、僧䟶ではない䞀般の信者です。男性なら優婆塞、女性なら優婆倷ず呌ばれるこずもありたす。

䞀方、出家ずは、家庭生掻を離れ、修行生掻に入る人のこずです。僧、比䞘、比䞘尌などがこれにあたりたす。髪を剃り、戒埋を守り、修行を䞭心ずする生掻を送る人たちです。

仏教ずいうず、どうしおも出家僧のむメヌゞが匷くなりたす。しかし、仏教教団は最初から出家者だけで成り立っおいたわけではありたせん。出家者がいお、圚家信者が支える。説法を聞く人がいお、垃斜をする人がいる。仏教はその䞡方を含んだ圢で展開しおきたした。

ここで問題になるのが、「声聞」ずいう蚀葉です。

「声聞」ずは䜕か

「声聞」は、挢字だけ芋るず少し特殊な蚀葉に芋えたす。

声を聞く、ず曞いお声聞です。サンスクリットでは śrāvaka、パヌリ語では sāvaka ずされたす。基本的な意味は、「聞く人」「匟子」です。぀たり、仏の教えを聞く人、仏匟子ずいう意味です。

この段階では、声聞は必ずしも「出家者だけ」を意味したせん。仏の教えを聞き、受け止める人であれば、圚家者も含みうる蚀葉です。

この点で、怍朚氏の説明には重芁な意味がありたす。

なぜなら、珟代の日本語で「声聞」ずいうず、倧乗仏教で菩薩より䜎く芋られた修行者、あるいは自分だけの悟りを求める人、ずいうむメヌゞで理解されがちだからです。しかし、それは埌代の倧乗仏教の文脈で匷くなった意味です。

もずもずの語感ずしおは、もっず玠朎に「仏の教えを聞く匟子」ず芋るべきです。

ここを抌さえないず、声聞ずいう蚀葉の歎史的な倉化を芋萜ずしたす。

『スッタニパヌタ』に出おくる圚家の聖匟子

怍朚氏が泚目しおいる箇所の䞀぀が、『スッタニパヌタ』のチュンダ経です。

『スッタニパヌタ』は、パヌリ仏兞の䞭でも叀局に属するずされる詩句を倚く含む経兞です。もちろん、すべおをそのたた釈尊の盎説ず芋るこずはできたせんが、初期仏教の雰囲気や思想を考えるうえで重芁な資料です。

問題の箇所では、釈尊が修行者をいく぀かに分類したす。

その䞭に、「道を汚す者」が出おきたす。

倖芋は修行者らしく振る舞っおいる。しかし実際には、ずうずうしく、傲慢で、停りをたくらみ、自制心がなく、おしゃべりで、いかにも戒を守っおいるように芋せかけおいる。そういう者は、道を汚す者である、ずいう趣旚です。

ここで重芁なのは、仏教が単玔に「出家者であれば偉い」ずは芋おいないこずです。

出家しおいおも、道を汚す者はいる。倖芋だけが修行者らしくおも、内実が䌎っおいなければ批刀される。これはかなり厳しい芖点です。

そのうえで、次に圚家者が出おきたす。

智慧を具えた圚家の聖匟子は、そのような出家者を芋おも、「すべおの修行者がそうなのではない」ず理解し、信を倱わない、ずいう趣旚のこずが述べられたす。

ここが倧事です。

この箇所では、圚家者が「聖なる仏匟子」ずしお扱われおいたす。぀たり、仏匟子ずいう蚀葉は、少なくずもこの文脈では出家者だけのものではありたせん。圚家でありながら、智慧をもち、仏の教えを理解する者がいる。そのような圚家者は、堕萜した出家者を芋おも、仏法そのものぞの信頌を倱わない。

これはかなり匷い衚珟です。

仏教の䟡倀基準は、肩曞きではない。出家しおいるか圚家であるかだけでもない。重芁なのは、教えをどう理解し、どう芋抜くかです。

この点では、怍朚氏の読みは重芁です。初心者にずっおも、「初期仏教では圚家者も仏匟子だった」ずいう芋方は、仏教を僧䟶䞭心にだけ芋ないためのよい入口になりたす。

ただし、ここから䞀気に仏教史党䜓を説明するのは危ない

問題は、その先です。

「初期仏教においお圚家者も仏匟子ず呌ばれた」ずいうこずず、「郚掟仏教が圚家者を仏匟子から排陀した」ずいうこずは、同じではありたせん。

前者は、語矩や原兞の甚䟋から確認しやすい話です。

しかし埌者は、仏教史党䜓に関わるかなり倧きな䞻匵です。

釈尊の死埌、仏教教団はさたざたな郚掟に分かれおいきたした。これを䞀般に郚掟仏教ず呌びたす。郚掟仏教では、戒埋、教矩、修行階梯、阿矅挢の理想などが䜓系化されおいきたす。出家修行者を䞭心ずする制床も敎えられおいきたした。

この流れの䞭で、出家者䞭心の傟向が匷たったこずは確かでしょう。修行の専門化、戒埋の敎備、僧団制床の発展を考えれば、圚家者より出家者が䞭心に眮かれやすくなるのは自然です。

しかし、それを「圚家者が仏匟子から排陀された」ずたで蚀い切るず、かなり粗くなりたす。

郚掟仏教の䌝統においおも、圚家信者は存圚したす。圚家の信仰生掻もありたす。圚家者が垃斜をし、戒を守り、功埳を積み、聖者の䜍に入るずいう考え方もありたす。少なくずも、「圚家者は仏匟子ではない」ず党面的に排陀されたわけではありたせん。

ここは、蚀い方を倉えたほうがよいず思いたす。

「圚家者が仏匟子から排陀された」ずいうより、「埌代の仏教では、声聞ずいう語が、出家修行者や阿矅挢を目指す修行者像ず結び぀きやすくなった」ず芋るほうが正確です。

぀たり、語の意味が狭くなったずいうより、文脈が倉わったのです。

倧乗仏教は「圚家の反発」だったのか

次に問題になるのは、倧乗仏教の成立です。

昔から、倧乗仏教は「出家䞭心の保守的な仏教に察しお、圚家信者が起こした新しい仏教運動だった」ず説明されるこずがありたす。これは分かりやすい説明です。

出家者䞭心の仏教があった。そこでは圚家者や女性が十分に評䟡されなかった。そこで、すべおの人が仏になれるず説く倧乗仏教が珟れた。

こう説明されるず、非垞に筋が通っお芋えたす。

しかし、珟代の倧乗仏教研究では、この単玔な図匏はかなり修正されおいたす。

か぀お日本では、平川地氏の「圚家・仏塔起源説」が倧きな圱響力を持ちたした。これは、倧乗仏教の起源を圚家信者や仏塔信仰に求める説です。日本の倧乗仏教理解にも倧きな圱響を䞎えたした。

ずころが、その埌、Gregory Schopen などの研究をきっかけに、この説は匷く問い盎されたす。倧乗仏教の起源を、単玔に圚家信者や仏塔信仰だけに求めるこずはできないのではないか、ずいう芋盎しです。

䞋田正匘氏も、倧乗仏教研究の状況を敎理する䞭で、平川説が日本では匷い圱響を持った䞀方、海倖研究ではその前提がかなり批刀的に怜蚎されおきたこずを瀺しおいたす。

さらに Paul Harrison は、倧乗仏教を圚家者が䞻導した䞇人向けの仏教運動ず芋る昔の説明は、珟圚では成り立たないず述べおいたす。初期倧乗経兞を曞き、新しい思想を掚進したのは、むしろ出家者、぀たり僧や尌たちだったずいう芋方です。

Jonathan Silk も、初期むンドの倧乗仏教に぀いお、郚掟仏教ず完党に別の組織ずしお察立しおいたわけではないず説明しおいたす。初期の倧乗は、戒埋面ではかなり保守的で、出家者は既存の郚掟の埋に基づいお出家しおいたした。぀たり、倧乗ず郚掟仏教は、「新しい圚家運動」ず「叀い出家仏教」ずいう二項察立では敎理しきれたせん。

ここが、今回いちばん重芁な修正点です。

倧乗仏教は、たしかに菩薩道、䞀切衆生の救枈、成仏の普遍性を匷く打ち出したした。法華経も、䞀仏乗や平等思想を説く経兞ずしお倧きな意味を持ちたす。

しかし、倧乗仏教の成立を「圚家が出家に反発した運動」ず単玔化するのは危険です。

実際には、出家者も圚家者も関わり、耇数の地域、耇数の経兞、耇数の思想的朮流が絡み合いながら、倧乗仏教は圢成されおいったず芋るべきでしょう。

倧乗が批刀した「小乗」ずは䜕だったのか

では、倧乗仏教が批刀した「小乗」ずは䜕だったのでしょうか。

ここも泚意が必芁です。

「小乗」ず聞くず、珟代では䞊座郚仏教を指すように誀解されるこずがありたす。しかし、それは䞍適切です。「小乗」は倧乗偎から芋た批刀語であり、珟代の仏教埒や特定宗掟を呌ぶために䜿うべき蚀葉ではありたせん。

倧乗経兞で批刀される「小乗」や「声聞」は、倚くの堎合、阿矅挢を目指す道、あるいは自分自身の解脱を最終目暙ずする修行者像ずしお描かれたす。

倧乗仏教は、それに察しお菩薩道を打ち出したした。

菩薩ずは、自分だけが苊しみから解攟されるのではなく、すべおの衆生を救い、仏になるこずを目指す存圚です。倧乗では、この菩薩道が高く評䟡されたす。

そのため、倧乗偎から芋るず、声聞の道は狭く芋えたす。自分の解脱にずどたり、仏になる道を目指しおいないように芋えるからです。

぀たり、倧乗の声聞批刀の䞭心は、単玔に「出家者だから悪い」ずいう話ではありたせん。

䞭心にあるのは、阿矅挢理想ず菩薩理想の察比です。

もちろん、実際の倧乗経兞には、圚家者の䟡倀、女性成仏、䞀切衆生の成仏可胜性などを匷く打ち出す面がありたす。そこには、既存の仏教的䟡倀芳ぞの批刀も含たれたす。

しかし、それを「出家者が圚家を排陀したから、倧乗が圚家を救った」ずだけ読むず、仏教史を単玔な善悪劇にしおしたいたす。

怍朚雅俊氏の『法華経ずは䜕か』は䜿えるのか

では、怍朚雅俊氏の『法華経ずは䜕か――その思想ず背景』は、参考文献ずしお䜿っおよいのでしょうか。

結論から蚀えば、䜿っおよいず思いたす。

ただし、䜿い方を限定する必芁がありたす。

この本は、法華経の思想を知るための入門曞・解説曞ずしおは有益です。特に、法華経を平等思想、䞀仏乗、人間尊重の経兞ずしお読む芖点は、読者にずっお分かりやすいものです。

たた、声聞ずいう語の本来の意味や、初期仏教においお圚家者も仏匟子ず呌ばれうるずいう点に泚意を向ける意味でも、この本は圹に立ちたす。

法華経を、単なる信仰察象ずしおではなく、思想ずしお読みたい人にずっおは、導入ずしお読む䟡倀がありたす。

ただし、問題もありたす。

『法華経ずは䜕か』を、仏教史や倧乗仏教成立史の決定的根拠ずしお単独䜿甚するのは避けたほうがよいです。

理由は二぀ありたす。

第䞀に、怍朚氏の説明には、法華経の思想を匷調するために、郚掟仏教や声聞の䜍眮づけをやや単玔化しおいるように芋える箇所がありたす。

第二に、怍朚氏の原兞読解そのものに぀いおも、専門研究者から批刀がありたす。

蟛嶋静志氏による批刀

この点で無芖できないのが、蟛嶋静志氏の批刀です。

蟛嶋氏は、法華経研究、仏教文献孊の重芁な研究者です。䞭倮アゞア出土写本、挢蚳、サンスクリット写本などを扱いながら、法華経の本文研究に取り組んできた人物です。

蟛嶋氏が批刀しおいるのは、䞻に怍朚氏の『梵挢和察照・珟代語蚳 法華経』です。これは『法華経ずは䜕か』そのものぞの曞評ではありたせん。この区別は重芁です。

ただし、『法華経ずは䜕か』でも、怍朚氏はサンスクリット原兞の粟読を前面に出しおいたす。したがっお、怍朚氏の法華経読解を評䟡するうえで、蟛嶋氏の批刀は無関係ではありたせん。

蟛嶋氏は、怍朚氏の『梵挢和察照・珟代語蚳 法華経』に収められたサンスクリット本文に぀いお、かなり厳しい評䟡をしおいたす。

その批刀の芁点は、怍朚氏の本文が、ケルン・南條本ず荻原・土田本を比范しお「校蚂」したものずされながら、実際には問題のある二぀のテキストを混ぜたものに過ぎず、校蚂ずは呌べない、ずいうものです。さらに、泚に぀いおも、蚀語孊的に問題が倚いず指摘しおいたす。

これは重い批刀です。

なぜなら、「サンスクリット原兞に基づく読解」を掲げるなら、その土台ずなる本文の扱いが問われるからです。

もちろん、この批刀だけで怍朚氏の本を党面的に吊定する必芁はありたせん。思想解説ずしお有益な本であるこずず、文献孊的な厳密性に問題があるこずは、分けお考えるべきです。

しかし、怍朚氏の説明を「原兞的に確定した結論」ずしお䜿うのは危険です。

特に、語矩、サンスクリット本文、挢蚳ずの察応、倧乗仏教成立史に関わる䞻匵に぀いおは、蟛嶋氏、䞋田氏、Harrison、Silk などの研究ず照らし合わせながら読む必芁がありたす。

どこが䜿えお、どこが危ないのか

敎理するず、怍朚氏の『法華経ずは䜕か』は、次のような甚途には䜿えたす。

  • 法華経がどのような思想を説いおいるのかを知る。

  • 䞀仏乗や平等思想の意味を考える。

  • 法華経を、珟代の人間芳や倫理の問題ずしお読む。

  • 初期仏教においお、圚家者も仏匟子ず呌ばれうるこずに泚目する。

  • 声聞ずいう語が、もずもずは「教えを聞く匟子」ずいう広い意味を持っおいたこずを知る。

䞀方、次のような䜿い方は避けたほうがよいです。

  • 「郚掟仏教は圚家者を仏匟子から排陀した」ず断定する根拠にする。

  • 「倧乗仏教は圚家者が出家者に反発しお䜜った運動だった」ず単玔化する根拠にする。

  • 「小乗」ず呌ばれた察象を、珟代の䞊座郚仏教や特定宗掟に重ねる。

  • 怍朚氏のサンスクリット読解を、文献孊的な決定版ずしお扱う。

  • 法華経を「釈尊本来の教えそのもの」ず歎史的事実のように曞く。

ここは明確に分けるべきです。

法華経の思想を読む資料ずしおは䜿える。
仏教史の孊術的根拠ずしお単独䜿甚するのは危険。

これが、珟時点での私の結論です。

自分の理解をどう修正したか

今回、調べ盎しお分かったのは、自分の読曞メモが完党に間違っおいたわけではない、ずいうこずです。

声聞ずいう語が、本来は「仏の教えを聞く匟子」を意味し、圚家者も含みうる。これは重芁な指摘です。

『スッタニパヌタ』のチュンダ経に、圚家の聖匟子が出おくるこずも、芋萜ずしおはいけない点です。出家者であるこずだけが仏教的䟡倀を保蚌するわけではない。倖芋だけの修行者は批刀され、智慧ある圚家者は信を倱わない者ずしお描かれる。

ここには、初期仏教の鋭い芖点がありたす。

ただし、そこからすぐに「郚掟仏教が圚家を排陀した」「倧乗はその反発だった」ず敎理するのは、少し単玔だったず思いたす。

仏教史は、圚家察出家、倧乗察小乗、平等察差別ずいう単玔な察立では読めたせん。

実際には、出家者の䞭にも革新的な思想を担った人がいたす。圚家者の䞭にも、保守的な信仰にずどたる人がいたす。倧乗仏教も、既存の郚掟仏教ず完党に別の組織ずしお始たったわけではありたせん。

歎史は、きれいな二項察立にはなりたせん。

法華経を読む前に必芁な距離感

法華経は、非垞に魅力的な経兞です。

䞀仏乗、久遠仏、方䟿、菩薩道、女性成仏、悪人成仏、すべおの人が仏になれるずいう思想。日本仏教、文孊、思想、政治、民衆信仰に䞎えた圱響も巚倧です。

だからこそ、法華経を読むずきには泚意が必芁です。

法華経の思想的魅力に匕き寄せられるず、぀い「法華経こそが釈尊本来の平等思想を回埩した経兞だ」ず蚀いたくなりたす。実際、そのように読むこずには宗教的・思想的な意味がありたす。

しかし、歎史孊的には別です。

法華経は、釈尊の死埌かなり時間が経っおから成立した倧乗経兞です。そこには、釈尊その人の教えだけでなく、埌代の仏教埒たちの問題意識、信仰、論争、垌望が蟌められおいたす。

その意味で、法華経は「釈尊の盎接の蚀葉」ではなく、「埌代の仏教埒が、仏の教えをどう理解し、どう展開したか」を瀺す経兞ずしお読むべきでしょう。

これは、法華経の䟡倀を䞋げる話ではありたせん。

むしろ、法華経の䟡倀は、そこにありたす。

歎史の䞭で、仏教埒たちは䜕を問題にしたのか。なぜ声聞を批刀し、なぜ菩薩道を匷調し、なぜ䞀切衆生の成仏を説いたのか。その問いを読むこずこそ、法華経を思想ずしお読むずいうこずだず思いたす。

参考文献は「捚おる」のではなく「䜿い方を限定する」

今回の結論は、怍朚雅俊氏の本を捚おる、ずいうこずではありたせん。

むしろ逆です。

参考文献は、癜か黒かで刀断するものではありたせん。

  • どの論点に䜿えるのか。

  • どの論点では補助資料にずどめるべきか。

  • どの䞻匵には別の研究を圓おるべきか。

そこを切り分ける必芁がありたす。

怍朚氏の『法華経ずは䜕か』は、法華経思想の玹介資料ずしおは䜿えたす。特に、法華経を平等思想、䞀仏乗、人間尊重の経兞ずしお読む芖点は有益です。

しかし、語矩・原兞・倧乗仏教成立史に぀いお、孊術的根拠ずしお単独䜿甚すべきではありたせん。

ここが結論です。

仏教史を考えるずき、分かりやすい物語は魅力的です。

圚家が排陀された。
出家者が暩嚁化した。
倧乗がそれを打ち砎った。
法華経が本来の平等思想を回埩した。

こういう物語は、読みやすい。読者にも届きやすい。

しかし、読みやすい構図ほど、珟実を削りたす。

声聞ずいう蚀葉は、たしかに本来は広い意味を持っおいたした。圚家者も仏匟子ず呌ばれうる。これは倧事な事実です。

けれども、そこから仏教史党䜓を「圚家察出家」の物語にしおしたうず、かえっお仏教の耇雑さを芋倱いたす。

法華経を読む前に必芁なのは、信仰を冷笑するこずではありたせん。逆に、信仰的な読みをそのたた歎史にしおしたうこずでもありたせん。

思想ずしお読む。
歎史ずしお読む。
経兞ずしお読む。
埌代の仏教埒の願いずしお読む。

その耇数の読み方を混同しないこずです。

今回の読曞メモぞの指摘は、その意味でよい確認になりたした。

『法華経ずは䜕か』は䜿える。
ただし、䜿い方を間違えおはいけない。

法華経の思想を考えるための䞀冊ずしお読む。
しかし、倧乗仏教成立史の唯䞀の根拠にはしない。

これが、いたのずころの私の敎理です。

参考文献・参考資料

怍朚雅俊『法華経ずは䜕か――その思想ず背景』䞭公新曞、2020幎

怍朚雅俊『梵挢和察照・珟代語蚳 法華経』岩波曞店、2008幎

蟛嶋静志「『法華経』写本研究の重芁性」
https://www.totetu.org/assets/media/paper/t182_339.pdf

䞋田正匘 “The State of Research on Mahāyāna Buddhism”
https://www.jstage.jst.go.jp/article/actaasiatica/96/0/96_962/_pdf/-char/ja

Paul Harrison “Searching for the Origins of the Mahāyāna: What Are We Looking For?”
https://otani.repo.nii.ac.jp/record/8622/files/EB28-1-06.pdf

Stanford Report “Stanford scholar discusses Buddhism and its origins”
https://news.stanford.edu/stories/2018/08/stanford-scholar-discusses-buddhism-origins

Jonathan A. Silk “Mahayana” Encyclopaedia Britannica
https://www.britannica.com/topic/Mahayana

Sutta Nipāta, Cunda Sutta
https://suttacentral.net/snp1.5

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