日記を書くこと。
2年前のきょう、(紙の)日記にこんなことを書いていた。
だれかの日記を読むことはおもしろい。小説やエッセイには感じない「うらやましい」の感情が湧きあがる。だれかの日記をうらやましく読む自分がいたとしたら、そのだれかの目や耳や感じ方がうらやましいのであり、つまりは生き方がうらやましいのだ。
たぶん古賀及子さんの日記を読んで書いたのだろう。彼女の日記を読むとぼくは、「おもしろい」よりも先に「うらやましい」とあこがれてしまう。
2023年に『さみしい夜にはペンを持て』という本を書いた。もともとは中高生に向けてざっくり「書くこと」のたのしさを伝えたい、と思って書きはじめたのだけど「じゃあ、なにを書くのさ?」と自問し、日記だよな、と自答した。
義務にはしたくないので noteについてはもう、いつやめてもいいと思っている。ほんとにそう思っている。それでもまあ、いい惰性として明日も書くだろうし明後日も書くだろう。習慣化というほど能動的なものではなく、惰性というのがいちばん近い。そしてまた、仮に noteをやめる日がきたとしても日記的な毎日の書きものはなにか残していくだろうな、と思っている。日記帳に書くそれなのか、非公開設定でアプリ的なものに書くそれなのか、そのへんはともかく。
友だちの燃え殻さんが毎日、日記を配信している。起きたこと、起きなかったこと、したこと、しなかったこと、いま思っていること、思いついたこと、などについて書いている。ぼくが長年「いつか『そういう状況』に立たされたとして、それでもおれは書くのだろうか」と思っていた状況がやってきたいまも、燃え殻さんは書いている。
プロだから? 仕事だから? そういう職業を選んでしまったから?
日記だから、なのだとぼくは思う。
日記は「構想10年」とかの大層な準備をもって書くものではない。なんの準備もできない。ただきょうを、さっきを、いまの自分が書くものだ。いつかの自分が、いつかの自分を肯定するために。
自分は書くのだろうか。すくなくとも日記は、書いておきたい。書く自分でありたい。日記よりもおおきな文学はないような気が、いまはしている。
