「Z世代です。わたしたちの世代に蔓延する冷笑の風潮に、どう向き合っていけばいいでしょうか」
今週はなんだか忙しかったなあ。
普段オフィスにこもって原稿を書くばかりの生活を送っているので、移動や打ち合わせが多いというだけで忙しく感じてしまう自分がいます。この時期の移動はほら、暑いですし。「汗をかく」ってやっぱり労働の象徴というか、汗をかいただけで身体は「働いたなあ」と思うものなんですよね。
それでは金曜恒例、28回目の「もしもしボックス」です。本日のご相談は、Z世代の方から「冷笑」について。
「Z世代です。わたしたちの世代に蔓延する冷笑の風潮に、どう向き合っていけばいいでしょうか」
まず、ソーシャルメディア(SNS)という相互監視システム、それがもたらした慢性的なストレス、さらには冷笑という防具。いずれも的確な分析で、まったくそのとおりだと思います。
そしてまた、ぼくの書くnoteについてもときどき「エモいなぁ」みたいなことを言ってくる人がいます。ぼくの耳に届かないものも含めれば、けっこうたくさんの人がそう思っているのかもしれません。ご本人に悪口のつもりがなかったとしても、「まったくエモいなぁ」なんて苦笑いされるのは、嫌なものです。「感性さん」もきっと「エモい」と同じ種類のことばだし、エモいの何倍も不快な響きを持つことばだと思います。
じゃあ、どうして冷笑は生まれるのか。
ぼくがいつも思い浮かべるのは、いじめの構造です。
たとえばクラスのなかで、コガくんがいじめを受けているとします。コガくんを直接罵ったり、持ちものを隠したり壊したり、あるいは身体的な危害を加えたりする「いじめっ子」なんて、ぜいぜい数人程度でしょう。ほとんどの生徒は傍観者です。いじめっ子が怖くて、黙って見過ごしている。
でも、傍観者のなかにもグラデーションがあります。言わば、積極的傍観者と消極的傍観者がいます。消極的傍観者というのは「いじめはよくないし、コガくんがかわいそうだ。でも、ここでいじめっ子たちに歯向かったら自分がいじめの被害に遭いかねない」と考える人たち。
それに対して積極的傍観者は、心のどこかでコガくんのいじめを、たのしんでいるんですね。自分が直接手を下すわけじゃないけど、いじめを気持ちよく思ったり、コガくんにざまあみろ、と思っている。あるいはこれを期に、いじめっ子たちに近づこう、気に入られよう、と思っている。取り巻きというほどでもない取り巻きで、ある意味いちばん卑怯なポジションです。
で、冷笑の人たちってソーシャルメディア空間における積極的傍観者なんだと思うんですね。絶対に傷つかない場所から、直接的ないじめとは違ったやりかたで、にやにや笑いながら保身の攻撃に精を出している。それで自分を守ろうとしている。とっても卑怯な、臆病者です。
ただし、残念ながら冷笑の人たちは、なにかの「当事者」になることができません。ご質問のなかに「客観視」ということばがありましたが、なにごとにおいても当事者になることを避け続けるのが冷笑のポジショニングで、その生は安全ではあるのかもしれないけれど、まったく充実しえないものだとぼくは思っています。冷笑が自然の構えになると、なにかを心底好きになったり、夢中になったり、我を忘れることもできないんですから。
それじゃあ、どうすれば彼らの冷笑を無視できるのか。
たくさん本を読みましょう。好きな作家さんがどんなふうに「はずれ者」の人生を歩んできたのか、なにを頼りに生きてきたのか、いろんな例を知りましょう。あるいは好きなアーティストのドキュメンタリーでもいいです。表現者として生きている人たちは、たくさんの冷笑をくぐり抜けて自分の「好き」を守り通しています。
感性を腐らせちゃ駄目です。エモさを失っちゃ駄目です。それは自分の心を腐らせ、失うことと同じなのですから。
引き続き、ご質問やご相談をお待ちしています。
