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小説が下手なのではなく、読者という他人に無関心

そんなことを考えてしまった。

今ここに書いているようにノートの記事は書ける。昔から個人サイトなどで駄文を書いていたので、これはお手の物だ。評価されるものではない、ということも含めて。

小説はまだ6年だ。そう、まだなんだ。6年で把握しきれる世界ではない。しかもうち5年はずっと自分のやり方でしか書いていなかった。というか今もそれでしか書けない。小説とウェブ小説が別物だと気づいたのはごく最近だ。

そしてその小説ですらおそらく書けていない。わたしの小説に見えるそれは、多分ソロプレイのTRPGのリプレイなのだ。しかもプレイヤーとしては未熟で苦手な、だ。

わたしにはシチュエーションが見えない。このキャラとこのキャラがこうやてぶつかって、こうなるんだ、みたいなのだ。なぜならそれを想定して行うTRPGもあるにはあるが、わたしはそれらは大嫌いだったし、嫌いなものを採用しない。

だから他人にはシチュエーションに見えることも全て、自動生成されたものだ、わたしの脳内で。このキャラはこう動くからこうなる、こうなったからあのキャラはこう動く、それが重なればこうなる、みたいな感じだ。

このやり方の優れたところは矛盾が出ることがほぼないこと。駄目なところは派手な、読者が読みたいと思える、優れたと云われる、シーンが出来るかどうかは全てその状況に因る、すなわち偶然でしか起こり得ないことだ。もちろん普通にTRPGのように、その様なシーンに誘導することは出来る。がわたしがその手法を好まないのだ。

賢明な読者にはおわかりいただけたと思うが、肝心なところでわたしは自分の好みやこだわりで拒否しているのだ。そりゃ、他人が見て楽しいものは作りにくい。

これは偏見だが、多くのメジャー作品は作者のやりたい通りではなく「これがお望みなんだろう?」といった読者に合わせた展開を書いてくれている、と思っている。超受けたメジャーは、幸運なことに作者の趣味嗜好と読者のそれが一致したものなのだ、と。

残念ながらわたしは超メジャーどころかメジャーすら???となりがちで、普通の人はスルーするような作品が好きなのだ。

わたしがSFが好きといって、余人に「フィリップ・k・ディックとか?」と問われると、「あー」としか言えないレベルなのだ。確かに「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は面白いと思った。が、それだけの人なんだ、わたしには。

その時、わたしは「実はコードウェイナー・スミスが好きでさ」とは言えなかった。たぶん知られていないと思ったから。実際の所、ハードSFときいて、フィリップ・k・ディックが出てくるのは、SFを知っているとは感じたが、だが、なのだ。

オースン・スコット・カードと言っても、もしかすると通用したかもしれない。けど「エンダーのゲーム」の方を思い出されるだろう。けどわたしは彼の「死者の代弁者」の方がより好みなんだ。

彼らの著作を読んで、彼らのような小説を書きたい、と思ったことはない。本当に一度も。わたしなどに手が届く作品ではない、と考えているからだ。

わたしが小説投稿サイトに書いたものを投稿するようになったのは、ある程度投稿サイトの作品を見ていて、なぜこんな矛盾だらけの作品のほうが多いのだろう? これぐらいならわたしにも書ける、と思い違いをしたからだ。

実際わたしは書いた。いきなり長編で135話、文字数にして約46万6千文字のものだ。これを完結させた。
けど、これは求められていたウェブ小説ではなかった。だからPVは低水準で評価やブックマークも少ない。そりゃそうだ。需要なんか一切考えず、独自の感性で書いたものだから、内容を理解されたどうかも怪しい。

いまや小説はほぼ滅び、ウェブ小説しかないような状況だ。少なくとも素人にとっては。読み手もウェブ小説を望む、それしか知らないのだから。

状況としては楽しい演劇(ウェブ小説)を見に行ったはずなのにお出しされたのが歌舞伎(小説)だと面食らうだろう。歌舞伎も演劇の一つではあるが。

また小説でもウェブ小説みたいに初速があり、読みやすいということは可能であろう、という考えもある。もちろんだ。それが理想だ。理想ということはとても難しい、ということだ。先程の例で言えば「スーパー歌舞伎」なんかがそういったものを目指しているのではないか、と思っている。

プロですらなかなか到達できない地点を、わたしは端から目指していない。能力が足りないからではなく、そもそも見ている場所が違う。矛盾のない世界を保つことと、初速のある読みやすさを供給することは、わたしの中では両立させる動機自体がないのだ。
もっと小説にかけていれば、そういったものも乗り越えようと考えるかもしれないが、そこまでではないのだ。きっかけからして。

もちろん努力していないわけではない。いろんなところで語られている創作理論などで自分でも使えそうなものは使ってみたりしようとはしている。けどまあ、そんなことなかなかうまくいくものではないよな、とも頭の片隅でどうしても考えてしまう。

これのように作品とはなれなかったものたちも多くある。ここにある数倍はまだ眠ったままだ。ずっと寝たままのものも多くなるだろう。

わたしにとって、これらは完結した一つ一つのセッションの記録に過ぎない。ウェブ小説として測れば価値は低いが、それはこの記録が別の物差しで作られているからで、同じ物差しに乗せて測る方が本来おかしいのだと思う。

小説として小説家に喧嘩を売る事もできない。ウェブ小説はあわない、と逃げているだけにも思える。それは自分自身が、小説もしくはウェブ小説を書いている、という気すらないからだ。最初に書いた通り、私の脳内でプレイされたソロプレイの内容をリプレイとして、小説形式で書いているだけなのだ。だから複雑に見えてもプロットすらない。全部アドリブである。

プロットを書いて、それに沿って書くことにも挑戦したことがあるが無惨なものであった。

だからわたしは、表題にあるように、小説もしくはウェブ小説、というメディアに拘っているわけではないのだ。単に形式がそれに近くなっているだけで、発表できるなら、自分で作れるなら、なんでもいいのだ。
読者が何を求めているかは、たぶん分かっている。分からなければ、こんな悩みも生まれなかった。能力がないなら、それで終わっていた話なのだ。(そこが、たぶん一番他人に伝わりにくいところだ。メディアへの忠誠より、書き終えて世界を消さずに済んだことの方が、わたしには重い)

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