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半世紀に渡る究極の焼肉の旅の終わり


 北朝鮮関連の仕事をするようになり、親しくなった在日コリアンの方に、一瞥されてから深いため息を吐くことが多かった。

 168センチ48キロ。これでもかなり太ったのである。多くの在日コリアンの方と出会った時期は43.8キロだった。

「ちゃんと食べてますか」とまず聞かれる。頷くと「どこかお身体が悪いのですか」とまるで健康診断の内科医のようなことを聞く。

 いいえ。と答えるとと放っておけない!と思うのだろう。取材場所が朝鮮学校で、七輪を囲んで焼肉をしていると席に強引に座らされ、カメラもメモも取り上げられ「ホルモンとカルビ!ハラミ!」と注文が入りたんまり食べさせられる。 

 胃下垂気味なのと食い意地は人並み以上なので、意外と食べることが出来る。遠慮なくいただくと満足気に笑うのだ。韓国人と朝鮮人に何か勧められたらドカンと食べるに限る。

 色々美味しいお店で焼肉を食べて来た。

 いくつか紹介してみようか。

  川崎の龍苑。ここは予約が出来ないことで有名。しかしあるコネを使い入った。


 上野なら陽山道。朝鮮総連の元幹部の方が接待で連れて行ってくれた。父と同じ大学であることがわかると喜び、がんがん肉を頼んでくれた。

 上座に座らされ「焼肉は在日に任せんかい!」といわれトングを奪われ、ひたすら食べまくった思い出がある。

 この方との仕事の会議で初日に出たのが叙々苑弁当。在日コリアンの羽振りのよさに沈黙した。

別のある方に「あなたの連載は好評よ。すこぶる好評。訪朝記の革命よ」とまで言われて連れて行かれたのは日暮里にある今はなき店、M。


 今は無くなってしまったのが惜しまれる。裏メニューもいっぱいあった。

 日暮里界隈には、在日コリアンしか行かない店がいくつかあった。今はなきH。密談の席でよく使わせていただいた。うなぎの寝床のような店の奥の座敷が定位置。公安、警察関係者が来ても見破れる構造になっていた。ここでコブクロ刺のうまさを知った。

 赤羽にあった東京苑のソルロンタン。ガスで焼く普通の焼肉は美味しかった。上野で友人が経営していた「絵のある街」も上野からは無くなってしまった。瑞江や赤羽に店舗はあるみたいだけど。

 他にも紹介しきれない店は多々あるが、かくして焼肉だけは美味しいものばかりいただいて来た。しかもかなりの割合で接待で連れて行ってもらった。

 惜しむらくはいくら食べても自らの血肉にならないことで、相変わらずわたしは痩せたままである。

 つまり30代から40代の終わりの今まで、わたしは終わりなき究極の焼肉を探し食べる旅を続けていた。究極の焼肉を食べる旅(主に関東)。在日コリアンの方と知り合うと挨拶の次にまず聞いたのはディープな焼肉屋情報だった。彼らは嬉々として教えてくれた。その店に日本人の友人を連れて行くと間違いなく絶賛された。

 しかしそれらはすべてコスパがいい店であり、裏メニューが充実している店であり、在日コリアンしか知らないようなレアでディープな店だった。つまり30代から40代にかけてのわたしはひたすらに奇手を繰り出し、食通ぶり、また悦に入っていたのである。

 しかしコロナで状況は一変した。あの店この店となくなり弾は減り、そもそも出歩くなといわれ、また人の縁も薄くなってしまった。

 そしてカルビが辛くなった。ハラミとロースが美味しくなった。豪奢な焼肉を食べる旅は終わりの予感がしていた。

 ところでなのだが、日本人の家庭ではあまり焼肉を外で食べないようなのだ。そういやわが家もそうだった。ホットプレートで焼いてエバラの焼肉のタレで食べる程度だった。

「何かいいもの食べに行きましょうよ。奢るわ!生前贈与!」と最近豪奢なことを妻の親族がいいだした。子どもがいない彼らにはわたしたち夫婦は子どものような存在なのだ。「じゃあ焼肉屋でも探しますか」と出しゃばって探してみたが、知っているのはディープな店ばかり。

 思案の末「トラジにしますか?」と提案してみたら、OKが出た。「高いですよ、本当に高いですから!」といって連れて行ったらことのほか喜んでくれた。

 また焼肉!というので、次は叙々苑を恐る恐る提案してみた。

タン塩である。刻みネギが巻いてある
ロースである。

 叙々苑を堪能したのち、叙々苑の上位互換の店があることを知る。その名は游玄亭(ゆうげんてい)。わたしは調子に乗っていた。「次は游玄亭ですねぇ」などと軽々しく口にしてしまったのだ…。

 行くことになった。親族から催促があり予約したと妻から知らせが来た。

 旅は終わるのだ。少なくとももうわたしはそんな年齢ではなくなったのだと痛烈に感じている。格安航空券を使い、円高の恩恵をシャワーのように浴びる旅。可処分所得も減り、中東危機で燃料サーチャージも乗っかり、もはや旅と移動は日本人にとって贅沢なものになりつつある。そして「深夜特急」(沢木耕太郎)のような旅はもう出来ない。体力的にも。

 叙々苑は至福であった。究極であった。圧倒的であった。そして高かった。

 それさえも超えるのが游玄亭だという。頭の中に三島由紀夫の「豊饒の海 天人五哀」の最後の文章が浮かんでいる。究極の焼肉の旅が終わった刹那、自分は自らの存在を消してしまわないかと疑義を抱くのである。

 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は日ざかりの日を浴びてしんとしている…。


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