母が運んできた、声にならない手紙(2,159字)
部屋のドアが、こんこん、と控えめにノックされた。
あの音だけは、四十年近く経った今でも、はっきり覚えています。
小学校五年生の、とある夕方のことでした。
仲良しグループから、突然はじき出された日。
理由は、今でもよく分かりません。
昨日まで一緒に下校していたはずの友達が、急に目を合わせなくなり、私を素通りして笑い合うようになった。
たった、それだけ。
でも、子どもにとっては「たったそれだけ」では済まないんですよね。
胸の奥が本当に痛むんだ、ということを、私はそのとき初めて知りました。
明日からどんな顔をして、教室に入ればいいんだろう。
あの席に、また座らないといけないんだろうか。
自室の天井をぼんやり見つめながら、頭の中だけがぐるぐる、ぐるぐる、空回りし続けていました。
そんなときに、あのノックです。
母が、小皿を持って部屋に入ってきました。
小皿の上には、いろんなお菓子が少しずつ盛られていました。
「おやつだよ」とだけ言って、母はそのまま部屋を出て行きました。
おやつが小皿に乗って出てくるなんて、それまでに一度もなかったことでした。
普段は、ティッシュかチラシの上に、ぽんと置かれているのがわが家のスタイル。
そもそも、こちらが何も言わないのに、わざわざ運ばれてくることすら稀だったのです。
明らかに、母は何かを察知していました。
何を見て察したのか。
表情だったのか、帰ってきたときの足音だったのか。
聞かなかったので、四十年近く経った今も、そこは謎のまま。
そして、当時の私は、その小皿を見て、正直こう思っていたのです。
「こんなもの」
そんなことより、明日の教室をどうやって生き延びるかが問題なんです。
お菓子で何かが解決するわけがない。
むしろ、なぜ急に小皿なんかに乗せて持ってくるのか、ちょっと白々しい気さえしていました。
味なんて、覚えていません。
すぐ食べたのかどうかすら、もう分からない。
ただ、その日の小皿の記憶が、今でも消えずに残っています。
大人になってから、何度もあの小皿のことを思い返すようになりました。
特に、自分が親になってからです。
子どもが何も言わずに帰ってきた日。
妙に静かにご飯を食べている日。
夜になっても、部屋からなかなか出てこない日。
そんなとき、私はキッチンに立って、子どもが好きそうなお菓子を探していることに気づきました。
そして、ふと分かるのです。
あの日、母が運んできたのは、おやつじゃなかった、ということに。
たぶん母も、なんと声をかければいいか、分からなかったんだと思います。
「どうしたの」と聞けば、子どもがさらに追い詰められるかもしれない。
「大丈夫だよ」と言うには、何があったのかを知らなさすぎる。
励ますにも、慰めるにも、踏み込みすぎるにも、何もかもが少しずつ違う。
そんなとき、人が選べる手段は、案外少ないものなんですよね。
母はたぶん、言葉を諦めたのではなく、言葉の代わりになるかたちを、探したのだと思います。
その答えが、あの小皿だった。
ティッシュではなく、チラシでもなく、わざわざ食器棚から出してきた小皿。
普段より、ほんのちょっとだけ豪華に盛られたお菓子。
何も聞かず、何も言わず、置いて去る、というその一連の動作。
そのすべてが、「あなたのことを見ているよ」という、たった一行の、声にならない手紙だったのではないかと思うのです。
子どもの私は、その手紙を読めませんでした。
それどころじゃなかったから。
でも、読めなくても、届いてはいたのだと思います。
仲間外れにされて感じた、あの底のない孤独感が、ほんの少しだけ、薄まった感覚があったから。
ひとりぼっちの自分の部屋に、誰かの気配が、確かに一度通り過ぎたから。
その気配の残量みたいなものが、当時の私には、ちょうどよかったのかもしれません。
そんなふうに考えるようになってから、私の中で、優しさの定義が少し変わりました。
優しさって、必ずしも上手な言葉や、的確なアドバイスではない。
ときには、何も言えないほうの優しさ、というものがあって。
その「何も言えなさ」を、別のかたちに翻訳して渡してくれる人がいる。
小皿の上のおやつ。
たたまれて置いてある洗濯物。
玄関に揃えられた靴。
冷めないようにラップのかかった味噌汁。
そういう、なんでもない日常の動作のなかに、ぽつんと入っている、誰かの「あなたを見ているよ」。
それは、その瞬間に気づけないことのほうが、ずっと多いのかもしれません。
気づくのは、十年後か、二十年後か、自分が同じ立場に立たされたときか。
私が、親になってやっと気づいたみたいに。
今、私も、ときどき子どもたちのおやつを小皿に乗せます。
応援したいとき。
ほめたいとき。
ただ、一緒にいる時間を、もう少しだけ味わっていたいとき。
そういう、言葉にすると照れくさい気持ちを、ちょっとだけ皿に乗せて、「おやつだよ」って差し出します。
子どもたちはたぶん、「こんなもの」って思っているはずです。
それで、いいんです。
いつか、もしその子たちが大人になって、ふとした瞬間に、あの日の小皿を思い出すことがあれば。
そのときに初めて読まれる手紙でも、構わないと思っています。
部屋のドアが、こんこん、と控えめにノックされる。
その音は、たぶんいつの時代も、おやつじゃないものを運んでくるんですね。

