【三國志マイナー群雄列伝③】「悪党」厳白虎と江東のリアル――「学問」という特権を持たなかった、地元の親分の哀愁
歴史の教科書が、一番汚い名前を押し付けた男
前回の記事では、ブランドという「責任」を重んじすぎ、旧時代のルールブックを抱えたまま、新時代の嵐(孫策)に散っていった漢室のサラブレッド・劉繇(りゅうよう)を取り上げました。気高く、誠実に、秩序の最後を守ろうとした彼の敗北には、どこか美しい哀愁が漂っていました。
孔伷、劉繇と続いたこの「マイナー群雄列伝」の第3回に迎えるのは、彼ら高貴な名士たちとは完全に真逆の男です。
歴史書にはただ「賊の首領」と書き殴られ、のちの小説『三国志演義』では「東呉の徳王」などという大層な看板を自称しては、進撃する孫策の前であっけなく討たれる、滑稽な引き立て役――。その名を、厳白虎(げんはくこ)と言います。
しかし、後世の私たちが「勝者の書いた教科書」のフィルターを剥ぎ取って、当時の江東の泥の匂いの中に立ってみるとき、景色は全く違って見えてきます。そこにあったのは、英雄たちの華々しい大義名分などではなく、自分たちを「正義」と飾るインテリ達のズルさと、気の利いた言い訳(学問)を持たなかった現場の親分の、どうしようもない格差のリアルでした。
1. 誰もが「グレーな言い訳」の仮面を被っていた季節
歴史のゲーム盤を、孫策が江東に乗り込んできたその瞬間にまで巻き戻してみましょう。
後世の私たちは、孫策を「江東の覇者となる若き英雄」として、袁術(えんじゅつ)を「天子を僭称した大悪人」として見てしまいがちですが、この時点の現実はもっと曖昧で、ドロドロとした泥仕合でした。
当時の袁術は、まだ大っぴらに漢王朝へ反逆していたわけではありません。曹操が天子を囲い込んで「中央の正義」をハッキングしたように、袁術もまた、手元の公文書を都合よく偽造しながら、自分の縄張りを広げようとしていたグレーな存在に過ぎませんでした。
そして、その袁術の下にいた若き孫策が掲げた遠征の名目も、実に「お利口なポーズ(体裁)」でした。
「江東の劉繇が騒がしく、あそこにいる私の家族や叔父がピンチです。彼らの加勢を兼ねて、江東を『鎮圧』してまいります」
袁術に対して殊勝な顔でそう語り、兵を借り受けた孫策。彼の中にあったのは、漢王朝への忠義でも袁術への忠誠でもなく、ただ「自分の生き残る地盤が欲しい」という、飢えた狼のような野心だけでした。
つまり、この戦いは「正義の官軍が、乱暴な賊を成敗する」という綺麗な物語などではなかったのです。誰もが「鎮圧」だの「秩序」だのというグレーな言い訳の仮面を被り、必死に武器を握り合っていた、それが当時の江東のリアルでした。
その濁流の渦中に、否応なしに巻き込まれていったのが、厳白虎という男だったのです。
2. 学問という特権の「愚かしさ」と、呉郡の三つ巴
正史における彼の本名は、ただの「厳虎」です。「白虎」とは地元の山の名、あるいは彼が率いた民衆の間でのあだ名でした。一説には前漢時代からこの地に根を張ってきた超有力な地主(在郷豪族)であり、にわかに現れた山賊などではありませんでした。
中央政府(漢)にとって、未開発の湿地帯が広がる江東は、わざわざ大軍を動かして統治する「費用対効果(コストパフォーマンス)」に見合わない世界の果て。
だからこそ政府はここを放置し、厳白虎が勝手に武装して独自のコミュニティを作っていても、黙認していました。
中央から来た劉繇様は立派だし、お高くとまった「江東の四姓(陸・顧・朱・張)」のインテリ様たちも偉い。けれど、戦乱と重税の世の中で、今日食べる米がない民衆を「しょうがねぇな」と囲い込み、泥にまみれて田んぼを作って食わせてくれたのは、お下品なヤクザの厳白虎の親分だけだった――。それが、名分のない現場の絆でした。
しかし、この地元の親分には、決定的な武器が欠けていました。それが「学問」です。
四姓をはじめとする名士たちが必死に修めた学問(儒教)とは、突き詰めれば「自分たちの価値を高め、支配を正当化するために、特権階級が自分たちのものにしてきたシステム」に過ぎません。汗水垂らして泥を這う厳白虎のような人間を見下し、自分たちだけを「正義」の記号で飾り立てるための、実に愚かしく、そして狡猾なズルさの道具でした。
文字も読めず、気の利いた大義名分をプロデュースする学問も持たなかった厳白虎は、彼らインテリ層から「同じ土地に住むヤクザ」として完全に無視され、孤立していました。
そこに、袁術の兵を借りて「鎮圧」のポーズを被った侵略者(孫策)が突っ込んできたのです。
ヤクザも侵略者も大嫌いだと門を閉ざして引きこもる四姓。
学問という特権の壁に阻まれ、彼らと結束することすらできなかった厳白虎は、剥き出しの暴力の前に、完全なる孤独の中でのサバイバルへと追い込まれていくことになります。
3. 各個撃破の冷徹な敗因:ミクロな親分の限界
もし、厳白虎の持つ「土着の武力と現場のカリスマ」に、江東の四姓たちの「圧倒的な財力と知略」が結びついていれば、孫策を撃退することは十分に可能だったはずです。孫策のベンチャー軍閥には時間がなく、地元の湿地帯に引きこもって泥沼の持久戦を展開すれば、孫策は勝手に干上がって自滅していたからです。
しかし、この「もしも」は絶対に実現しませんでした。それこそが、厳白虎が時代の敗北者となった原因です。
厳白虎には、名士たちを惹きつける「国家としてのビジョン」も、彼らを納得させる「大局的な広域戦略(マクロな視点)」もありませんでした。彼の行動原理は、どこまでも「自分たちの呉郡(縄張り)と、地元の民の生活を守る」というミクロな視点に縛られていたのです。ルールが完全に弱肉強食へと変わった時代(サバイバル)に対応できず、古い地主のやり方に固執した親分は、江東のすべてを合理的に支配せんとする孫策の前に、必然として各個撃破されていきました。
独自の地形(地名に残る「厳権瀬」など)を活かして泥臭くゲリラ戦を展開し、孫策が地元の怨恨によるテロで26歳で急死したのち、跡を継いだ孫権の時代になっても深い山林に潜んで牙を剥き続けたその生命力は本物でした。
しかし、システム(学問と内政)を持たない武装集団は、どれだけタフであっても、近代的な軍事国家へと脱皮していく孫呉政権の引き立て役にされる運命から逃れられなかったのです。
結びに:歴史の地層に、泥臭い生命力の足跡を
のちに孫呉政権は、兄の暴力路線を反省した孫権が四姓に平身低頭で頭を下げ、利権と実務を丸投げすることでようやく安定します。国を支配したはずの孫家は、結局最後まで四姓を排除することも滅ぼすこともできませんでした。彼らを潰せば行政が崩壊し、江東の富が灰になるからです。江東を支配するということは、この「排除不可能な土着システム」の顔色を一生伺い続けるという、血を吐くような大変さを伴うものでした。
そして、国が滅びる時、四姓たちは孫家をあっさり見捨てて次の王朝(西晋)に降伏。自分たちの家門と土地だけをちゃっかり守り抜き、その後300年以上も江東の絶対的支配者として勝ち残り続けました。
力の支配に頼った孫家は数代で滅び、大義名分にも殉じなかった狡猾な名士が特等席で生き残る。では、すべてに敗れ去り、歴史書に「賊」と書き殴られた厳白虎には、何も残らなかったのでしょうか。
かつて、彼が守り抜こうとした故郷(現在の浙江省杭州市周辺)には、厳白虎を「戦乱から民を守り、私財を投げ打って川を整備し、農業を盛んにしてくれた開拓の祖」として神様として祀る「白虎廟(びゃっこびょう)」というお堂が存在したといいます。
時の彼方に建物自体は消え去り、学問を独占した勝者の歴史書がどれだけ彼を「不届きな賊」と蔑もうとも、彼が命がけで泥にまみれて尽くした土地の記憶から、その名は完全には消せませんでした。
紙面上の美しい正義(孔伷・劉繇)が激流にあっけなく消え去った裏で、悪党と呼ばれた男の泥臭い生命力と敗北の足跡こそが、江東という土地の本当の生々しさとリアルを、今も私たちに伝えているのです。
