🌺ウメさんと喜三郎の縁側シリーズ『ゼッケンに縫い込まれた、母の祈り』
三月の午後、縁側には柔らかな陽射(ひざ)しが差し込んでいた。
ウメは、古いタンスの引き出しを開けて、何かを探している。喜三郎は、その様子を黙って見ていた。
「あった、これたい」
ウメが取り出したのは、白い布に縫い付けられたゼッケンだった。
「……何ばい、それは」
「あたしの体操服のゼッケンとよ。母ちゃんが縫うてくれたとばい」
ウメは、そのゼッケンを大切そうに手のひらに乗せた。
糸はところどころほつれ、布は黄ばんでいる。けれど、そこに縫い込まれた文字は、今もはっきりと読み取れた。
「『梅子』……母ちゃんの字やね」
ウメが、静かに呟(つぶや)く。
喜三郎は、そのゼッケンをじっと見つめた。
「……手縫いやな」
「そうたい。昔は、全部手で縫いよったとよ。母ちゃんは夜遅くまで、針仕事しとった」
ウメの目が、少し潤(うる)んでいる。
「あたしが大きくなるたびに、母ちゃんはこのゼッケンば縫い直しとったとよ。体操服は新しゅうならんでも、ゼッケンだけは、いつもきれいやった」
「……母親っちゅうもんは、そげなもんばい」
喜三郎の声は、いつもより柔らかかった。
「ゼッケンひとつにも、『元気で育ってほしか』っちゅう祈りが込められとるとよな」
「そうやね」
ウメは、ゼッケンを胸に当てた。
「あたしは、母ちゃんのこと、よう覚えとらんとよ。早ううちに亡くなってしもうたけん」
「……」
「けど、このゼッケンば見るたびに、母ちゃんの手の温もりを思い出すとよ。針ば持つ手、糸ば通す指……全部、あたしのためにあったとやね」
喜三郎は、何も言わなかった。ただ、静かにウメの横顔を見つめていた。
「母ちゃんはね、字が上手やなかったとよ。ばってん、このゼッケンの字は、一生懸命(いっしょうけんめい)書いとる。ちょっと歪(ゆが)んどるけど、それがまた……愛しかとよ」
ウメの指が、ゼッケンの文字をなぞる。
一針一針、母の思いが縫い込まれている。それは、ただの名前ではない。母から娘への、言葉にならないメッセージだった。
「……今の時代は、ゼッケンも印刷やろうな」
喜三郎が、ぽつりと言った。
「そうやろうね。便利になったばい」
「けど、手で縫うたゼッケンにしかない、何かがあるとよな」
「そう、それたい」
ウメは、ゼッケンをそっとちゃぶ台の上に置いた。
「便利になって、楽になって。それは、ようかことばい。けど……」
「けど?」
「けど、こげな『祈り』みたいなもんは、少のうなってしもうたかもしれんね」
喜三郎は、腕を組んだ。
「……ウメさん、そげなことなかばい」
「え?」
「祈りっちゅうもんは、形が変わるだけばい。昔は針と糸やった。今は、別の形かもしれん。けど、親が子を思う気持ちは、変わらんとよ」
ウメは、驚いたように喜三郎を見た。
「喜三郎さん……」
「……ワシも、親に育てられたけんな。わかるとよ」
喜三郎は、そう言って視線を逸(そ)らした。
ウメは、静かに微笑んだ。
「そうやね。あんたの言う通りたい。形は変わっても、心は変わらん」
陽射しが、ゼッケンを照らしている。
古びた布に縫い込まれた文字が、まるで光っているように見えた。
母の手、母の思い、母の祈り。
それは、時代を超えて、今もここに残っている。
「……母ちゃん、あたしは元気に生きとるばい」
ウメが、小さく呟いた。
喜三郎は、何も言わずに、ただ頷いた。
縁側には、春の風が吹いている。
タンスの奥に眠っていたゼッケンは、今日、久しぶりに陽の光を浴びて、静かに母の愛を語っていた。
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