京都亀岡の伝説㉝軽森野楊(かるもりやよう)と芭蕉句碑
軽森野楊(1770〜1839)は、江戸時代後期に活躍した俳人で、亀山藩の文人として知られる人物です。名は代右衛門、初めは半月亭、のちに老々庵と言いました。彼は亀山藩の徒士(かち)役人を勤めていたため、藩主が参勤交代のときにはお伴をし、東海道を何度も行き来して、各地の有名な俳人たちと交友を深めました。
かつて篠町と三宅町の境には千本松がありました。千本松は、丹後の宮津の天橋立に対して「野橋立」と呼ばれていました。野楊は句集に「野橋立」と名付けています。


1817年(文化14)には、野楊は松尾芭蕉(1644〜1694)を偲んで富士の裾野(富士市)に句碑を建てています。
句碑の正面には芭蕉の句 1687年(貞享4)
「ひと尾根は しくるゝ雲か 不二の雪」
と刻み、
裏面には自分の句
「しくるるや 失いもせず 山の月」
と刻んでいます。
また、野楊は、「丹波霧」で知られる亀岡の深い霧をお題に俳句を詠んでいます。
「亀山は 蓬莱島(ほうらいじま)か 霧の海」

1839年(天保10)6月、野楊は69歳でこの世を去ります。
「いざ行かん 蚤蚊の世話のない 在所」
と辞世の句を残しています。お墓は誓顕寺(塩屋町)にあり、墓碑には
「眼を留めて 居れば三十日も 月夜かな」
と句が刻まれています。
※軽森野楊が建てた松尾芭蕉の句碑は、現在、静岡県富士市富士町にある観光施設にあるそうです。
住所:〒416-0916 静岡県富士市富士町富士市交流プラザ
⭐︎遠くなのでぼくはまだ見たことがありません。静岡県の方、見に行かれたら写真ください。
