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23区に家を買う日――年収800万円、40歳係長の住宅購入教本



はじめに

家は、いくらまで買えるのか。

この問いに、不動産会社と銀行と家計は、それぞれ違う答えを出す。

不動産会社は言う。

「このご年収なら、もう少し上でも大丈夫ですよ」

銀行は言う。

「審査上は、この金額まで融資可能です」

しかし家計は、何も言わない。

ただ十年後、十五年後になって、教育費や老後資金という姿になって請求書を持ってくる。

この物語は、特別なお金持ちの話ではない。

東京で働く、ごく普通の会社員一家が、東京23区に72㎡、3LDKの中古マンションを買おうとする話である。

2026年7月、東京23区の中古マンションは70㎡換算の売り希望価格で平均1億2,724万円まで上昇していた。もちろん、23区すべてのマンションが1億円を超えているわけではない。しかし、「普通の会社員なら、普通に23区のマンションを買える」という時代では、もうなくなっている。(官邸.jp)



第一章 家賃を払い続けるのは、もったいないのか

日曜日の朝だった。

佐伯浩司、40歳。

都内の中堅企業に勤めて十八年になる。

役職は係長。

年収は約680万円。

部下はいる。

責任も増えた。

だが、課長になる可能性について上司から遠回しに言われたことがある。

「佐伯は現場型だからな」

褒め言葉なのか、出世はここまでだという意味なのか。

浩司には分かっていた。

たぶん後者だった。

妻の美紀は38歳。

スーパーで週四日働き、年間120万円ほど稼いでいる。

二人合わせて、世帯年収は約800万円。

長男の悠斗は10歳、小学四年生。

次女の菜々は5歳。来年、小学生になる。

一家は東京23区内の2LDK賃貸マンションに暮らしていた。

家賃は月16万2千円。

駐車場は借りていない。

「このまま家賃払ってても、何も残らないよね」

洗濯物を畳みながら、美紀が言った。

浩司も同じことを考えていた。

16万円。

年間なら約194万円。

十年間なら約1,940万円。

「二千万近いじゃん」

数字にすると、急にもったいなく感じる。

そして浩司はスマートフォンを開いた。

中古マンション。

東京23区。

3LDK。

70㎡以上。

駅徒歩10分以内。

築15年以内。

検索。

数秒後、浩司は画面を閉じた。

「高いな……」

六千万円。

七千万円。

八千万円。

見慣れない数字が並んでいた。

中には一億円を超える物件も珍しくなかった。

「中古だよね?」

美紀が聞いた。

「中古」

「それ、新築の値段じゃないの?」

「俺もそう思った」

夫婦は笑った。

しかし笑いながら、少し怖くなった。



第二章 「7,000万円借りられます」

翌週。

家族は住宅展示場ではなく、中古マンションを扱う不動産会社を訪れた。

担当者は30代半ばの男性だった。

浩司たちの年収を聞き、パソコンに数字を入力した。

「世帯年収800万円ですね」

「はい」

「奥様の収入も合算すれば、かなり選べますよ」

画面を見ながら担当者が言った。

「場合によっては、六千万円台後半くらいまでローンが組める可能性があります」

浩司は驚いた。

「そんなにですか?」

「もちろん金融機関の審査次第ですが」

六千万円。

場合によっては七千万円近く。

その瞬間、世界が少し広がった。

今まで検索結果から消していた物件が、突然候補に入ってくる。

駅徒歩7分。

築12年。

南向き。

72㎡。

大規模マンション。

6,780万円。

美紀が小声で言った。

「これ、いいね」

浩司もそう思った。

だが、その日の夜。

ある数字を見て、浩司は手を止めた。

「銀行が貸してくれる金額」と「自分たちが返せる金額」は、本当に同じなのだろうか。

住宅金融支援機構のフラット35では、年収400万円以上の場合、他のローンを含めた年間返済額について総返済負担率35%以下という基準がある。(フラット35)

世帯年収800万円なら35%は280万円。

月に直せば約23万3千円。

数字だけ見れば、かなり大きな返済ができそうに見える。

しかし浩司は、ふと悠斗の顔を見た。

あと八年で大学生になる。

菜々も、その五年後には大学生だ。

住宅ローンだけ払って人生が終わるわけではない。



第三章 銀行は子どもの大学費用まで心配してくれない

浩司は会社の先輩から紹介されたファイナンシャルプランナーを訪ねた。

夫婦で資料を持参した。

源泉徴収票。

預金残高。

生命保険。

家賃。

食費。

教育費。

スマートフォン代。

旅行代。

すべてである。

FPは最初に聞いた。

「ご主人、今後、年収はどのくらい上がりそうですか」

浩司は少し笑った。

「ほぼ上がらないと思います」

「管理職は?」

「たぶんないです」

美紀が横で黙っていた。

FPはうなずいた。

「それなら、昇給を前提に住宅を買ってはいけません」

その言葉で、話は決まった。

将来の昇進。

将来の妻のフルタイム勤務。

将来のボーナス増加。

そういう「予定」を全部消した。

現在の収入だけで考える。

しかも美紀の120万円は、住宅ローン返済の前提にはしない。

「奥様の収入は、教育費と貯蓄の補助だと思った方が安全です」

浩司が聞いた。

「じゃあ、いくらくらいですか」

FPは計算機を置いた。

「物件価格より先に、毎月いくらなら平気かを決めましょう」

ここが、不動産購入で最も大切なところだった。

不動産会社は物件価格からローンを考える。

家計は逆である。

家計から物件価格を逆算する。



第四章 6,800万円の家を諦める

2026年9月、三菱UFJ銀行の新規住宅ローン変動金利は年1.195%だった。一方で、フラット35の21年以上35年以下の最頻金利は年3.46%まで上がっていた。(MUFG ブックマーク)

浩司は初めて金利を怖いと思った。

6,000万円を借りれば、低い変動金利の時点では返せそうに見える。

しかし金利が上がれば、話は変わる。

しかもマンションには住宅ローン以外の費用がある。

管理費。

修繕積立金。

固定資産税。

火災保険。

設備交換。

駐車場。

そして中古マンションなら、将来の修繕積立金値上げもある。

「住宅ローンが15万円だから、住居費15万円じゃないんですね」

美紀が言った。

「そういうことです」

FPは答えた。

夫婦が気に入った6,780万円のマンションを買った場合、頭金を入れても借入額は六千万円近くになる。

そこに管理費と修繕積立金。

固定資産税。

将来の金利上昇。

子ども二人の教育費。

そして浩司は40歳。

35年ローンなら、完済は75歳。

浩司は資料を閉じた。

「やめます」

美紀が浩司を見る。

「いいの?」

「いい」

少し悔しかった。

けれど、不思議と後悔はなかった。

買えないのではない。

買わないのだ。

その違いを理解しただけだった。



第五章 条件を一つずつ捨てる

夫婦は家探しを最初からやり直した。

最初の条件はこうだった。

23区。

72㎡。

3LDK。

駅徒歩10分。

築15年以内。

南向き。

大規模マンション。

できれば上層階。

宅配ボックス。

ディスポーザー。

床暖房。

浩司は笑った。

「ホテル探してるみたいだな」

そこから、一つずつ条件を外した。

駅徒歩10分を15分へ。

築15年を30年程度まで許容。

高層階をやめる。

共用施設を求めない。

都心への距離より、スーパー、小学校、公園、病院を優先する。

そして探す地域も変えた。

足立。

葛飾。

江戸川。

板橋。

練馬。

北区の一部。

同じ23区でも、価格はまったく違う。

城東地区では2026年7月の中古マンション成約価格が平均5,757万円、平均専有面積57.57㎡だった。㎡単価は100万円だった。(ダイヤモンド不動産研究所)

72㎡なら単純計算で7,200万円になる。

つまり、4千万円台後半で72㎡を探すなら、さらに築年数、駅距離、立地などで条件を下げる必要がある。

ようやく浩司は理解した。

不動産とは、値段を下げるゲームではない。

何を捨てるかを決めるゲームなのだ。



第六章 4,850万円のマンション

三か月後。

葛飾区。

駅徒歩14分。

築29年。

72.3㎡。

3LDK。

五階。

南東向き。

売出価格4,850万円。

浩司は、最初は写真だけ見て候補から外しかけた。

築29年。

古い。

ところが現地に行って印象が変わった。

エントランスは派手ではない。

しかし清掃されている。

自転車置き場も乱れていない。

掲示板には管理組合の議事録が貼られていた。

大規模修繕は三年前に実施済み。

長期修繕計画も更新されている。

修繕積立金の滞納も少ない。

エレベーターの更新計画もある。

部屋の中は古かった。

浴室も古い。

キッチンも古い。

だが、窓から空が見えた。

悠斗が言った。

「俺、この部屋でいいよ」

六畳の洋室だった。

菜々は隣の小さな部屋に入って、

「ここ、菜々の部屋?」

と聞いた。

美紀が笑った。

その瞬間、浩司は少しだけ危険になった。

家を買う時、人は数字ではなく感情で買いたくなる。

だが、その日、浩司は申し込まなかった。

管理規約。

長期修繕計画。

修繕積立金残高。

総会議事録。

固定資産税。

ハザードマップ。

過去の修繕履歴。

全部確認した。

家族が買うのは72㎡の箱ではない。

そのマンションの未来だからだ。



第七章 借りられる4,000万円、返せる4,000万円

売主との交渉の結果、価格は4,720万円になった。

夫婦の貯蓄は1,500万円。

しかし、その全部を頭金にはしなかった。

購入時の諸費用として約330万円を見込む。

頭金として約520万円。

手元には650万円ほど残す。

住宅ローンは4,200万円。

35年。

変動金利1.195%として試算すると、毎月返済は約12万2千円になる。

管理費と修繕積立金を合わせて約3万5千円。

固定資産税等を月割りで約1万円強。

一家の住居費は、おおむね月17万円前後になった。

今の家賃とほとんど変わらない。

ただし違うことが一つある。

金利が上がる可能性がある。

仮に同じ4,200万円を年3%、35年で単純に計算すると、返済額は月16万円を超える。

だから浩司は、変動金利が今安いことを理由に、高額物件へ戻ることはしなかった。

低金利は「高い家を買うため」に使わない。

家計に余白を残すために使う。

それが佐伯家の答えだった。



第八章 妻の120万円を住宅ローンに入れない

美紀は聞いた。

「私の給料もあるんだから、もう少しいけたんじゃない?」

浩司は答えた。

「いけたと思う」

「じゃあ、なんで?」

「菜々が中学生になった時、今みたいに働けるか分からないだろ」

「働けるよ」

「分からないよ」

少し険悪な空気になった。

浩司は続けた。

「俺だって病気になるかもしれない。会社がどうなるかも分からない」

美紀は黙った。

浩司は、妻の年間120万円を住宅ローンのためのお金とは考えないことにした。

教育費。

旅行。

家電。

修繕。

そして貯蓄。

家族が普通に暮らすためのお金にする。

住宅ローンというものは、不思議な借金である。

三十五年先まで返す約束をするのに、三十五年先の自分がどうなっているか誰も知らない。

だから将来を楽観して借りるのではない。

将来が少し悪くなっても返せる金額を借りる。



最終章 「買えました」では終わらない

引き渡しの日。

浩司は鍵を受け取った。

金属の小さな鍵だった。

4,720万円の重さなどまるで感じない。

新しい部屋に入り、菜々が走り回った。

悠斗は早速、自分の机をどこに置くか考えている。

美紀はベランダに出た。

「ここで良かったね」

浩司はすぐには返事をしなかった。

遠くに東京のビル群が見えた。

駅から十四分。

築二十九年。

最新設備はない。

タワーマンションでもない。

友人に自慢するような住所でもない。

だが、住宅ローンを払っても、子どもの塾代を払える。

年に一度くらい旅行にも行ける。

冷蔵庫が壊れてもカードローンを使わなくて済む。

会社の業績が悪くなってボーナスが減っても、すぐには破綻しない。

そして650万円の現金を残している。

浩司はようやく言った。

「たぶん、これが俺たちの家なんだと思う」

美紀が笑った。

住宅購入で本当に重要なのは、

買えるかどうかではない。

買った後も、それまでと同じように家族で笑えるかどうかである。

銀行が貸してくれる上限まで借りる必要はない。

23区の平均価格を買う必要もない。

新築である必要もない。

駅徒歩10分である必要もない。

人に羨ましがられる必要もない。

家は人生の目的ではない。

人生を送るための器である。

佐伯家は、東京23区にマンションを買った。

しかし本当に手に入れたのは、不動産ではなかった。

家を買っても壊れない家計だった。

それが、40歳の係長と、パートで働く妻と、二人の子どもが出した答えだった。



この物語の結論

世帯年収800万円でも、東京23区で72㎡3LDKの中古マンションを購入することは不可能ではない。

しかし2026年の価格水準では、「23区」「70㎡超」「駅近」「築浅」を同時に求めると、家計との乖離が極めて大きくなる。

佐伯家が購入できた理由は、収入が高かったからではない。

予算の上限を先に決めたこと。

昇進を当てにしなかったこと。

妻の収入を住宅ローン返済の前提にしなかったこと。

現金を使い切らなかったこと。

築年数と駅距離を妥協したこと。

そして何より、

「銀行が貸してくれる金額」と「自分たちが幸せに返せる金額」は違う

と途中で気づいたからである。

住宅購入で最も危険なのは、ローン審査に落ちることではない。

審査に通ってしまうことである。



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