これから必要なのは、ポートフォリオではなく「ポートレート」なのかもしれない

最近、MVをほぼ毎日のように作っている。
TikTokにも投稿しているが、別にバズっているわけではない。
むしろフォロワーが少し減っていた。
毎日投稿しているのに減るのか、と少し笑った。
ただ、そもそも私は、MVをバズらせるために作っているわけではない。
TikTokで有名になりたいわけでもない。
作ったものを置いておけば、誰かの目に触れる可能性は0ではない。
その程度の導線としてSNSを使っている。
では、なぜこれだけ作っているのか。
考えていて、少し気づいたことがある。
私にとって大量のMVや音楽や文章は、ポートフォリオというより、
「ポートレート」なのかもしれない。


ポートフォリオは「何ができるか」を見せる

従来のポートフォリオは、
「私はこういうものを作れます」
と他人に伝えるためのものだった。
代表作を選び、綺麗に整理する。
映像なら映像制作能力。
デザインならデザイン能力。
プログラミングなら開発能力。
そこには、
What can you make?
――あなたは何を作れるのか。

という問いがある。
だから普通は、失敗したものや微妙なものは載せない。
完成度の高いものを選ぶ。
つまりポートフォリオとは、自分の能力を他者に伝えるために編集された展示でもある。
しかし、生成AIが普及すると、この意味は少し変わってくるのではないかと思う。


「作れる」ことの希少性が下がっていく

画像を作れる。
音楽を作れる。
動画を作れる。
文章を書ける。
コードを書ける。
これらは以前なら、それぞれ一定の技術を習得しなければできなかった。
もちろん今でも専門技術には大きな価値がある。
ただ、「とりあえず形にする」までのコストは急激に下がっている。
同じ生成AIや制作ツールを、多くの人が使えるようになる。
そうなると、
「動画を作れます」
だけでは、その人についてあまり分からなくなる。
むしろ知りたくなるのは、
その道具を渡されたとき、この人は何を作るのか。
なのではないだろうか。
つまり、
What can you make?
から、
What would you make?
への変化である。

同じAIを渡しても、同じ作品群にはならない

私のMVも、多くはAIを使っている。
音楽にもAIを使う。
映像にもAIを使う。
だから、それを「高度な映像技術の証明」として見せたいわけではない。
同じツールを他の人に渡せば、同じように映像や音楽を生成することはできるだろう。
しかし、同じツールを渡したからといって、同じ作品群が出来上がるわけではない。
何を題材にするのか。
どんな歌詞を書くのか。
どの生成結果を残すのか。
何を捨てるのか。
どの映像とどの音を組み合わせるのか。
どこを面白いと思うのか。
どこに違和感を覚えるのか。
どの状態を「完成」と判断するのか。
作品を作る過程には、小さな判断が大量に存在する。
一つの作品だけなら偶然かもしれない。
しかし、100本、200本、500本と積み重なれば、偶然では済まなくなる。
そこに、その人の判断の偏りが見えてくる。

作品の集合から、人間が見えてくる

面白いのは、別に自分自身について作品を作る必要はないということだ。
社会について歌ってもいい。
架空世界を作ってもいい。
ゲームを作ってもいい。
抽象映像を作ってもいい。
対象は自分ではない。
それでも大量に並べてみると、
「この人は、こういうところを見るんだな」
「こういうものに違和感を持つんだな」
「またこの問いに戻ってきたな」
「こういう表現を何度も選ぶんだな」
と、対象を見ている側の人間が浮かび上がってくる。
考えてみれば、これは少し肖像画に似ている。
肖像画は、単に顔の形を記録するものではない。
表情、服装、姿勢、背景、光、構図。
それらを通して、その人物そのものを描こうとする。
ならば、作品を大量に残すことでも同じことができるのかもしれない。
自画像を描いているわけではないのに、全部並べると自画像になる。
私はこれを、ポートフォリオではなく「ポートレート」と呼んでみたい。

Portfolioは能力を、Portraitは判断主体を見せる

この二つを分けるなら、こうなる。
Portfolio = 能力の証明
Portrait = 判断主体の可視化
ポートフォリオを見ると、
「この人は何ができるのか」
が分かる。
ポートレートを見ると、
「この人に何かを渡したら、何を考えて、何を返してくるのか」
が少し分かる。
これは企業が人を見る場合にも、意外と重要になる気がする。
生成AIによって制作能力そのものが普及すれば、
「このソフトが使えます」
「動画が作れます」
「画像が作れます」
という情報だけでは、人を判断しにくくなる。
そのとき欲しくなるのは、
この人はどういう判断をする人なのか。
という情報なのかもしれない。

代表作だけでは、逆に分からない

そう考えると、従来のポートフォリオには奇妙なところもある。
本人が「一番良い」と判断した数作品だけを見る。
当然、綺麗に整えられている。
しかし、それだけで本当にその人が分かるのだろうか。
むしろ100個の制作物があった方が、
何度も繰り返しているテーマ、
突然始める実験、
途中で捨てた方向、
妙に執着している表現、
本人すら気づいていない癖、
そういうものまで見えてくる。
完成度にはばらつきがあっていい。
むしろ、ばらつきまで含めて人物像になる。
これはポートフォリオとはかなり違う。

バズは、この目的とはあまり関係ない

そう考えると、TikTokでMVが何回再生されたかも、私にとってはそれほど重要ではなくなる。
一般の人に100万回見られることと、
自分がどういう人間なのかを残すことは、
そもそも目的が違う。
もちろん、たくさん見られるに越したことはない。
誰にも見られなければ、導線にもならない。
だからSNSにも置いておく。
しかし、作品そのものをSNSの評価軸に合わせて変えようとはあまり思わない。
私にとって重要なのは、
「これが何万再生された」
という記録ではなく、
「この時期の私は、これを面白いと思って作った」
という記録なのだと思う。
そして後になって、それが別の事業や仕事、人との接点につながることがあるかもしれない。
今すぐ役に立たなくてもいい。
資産として残っていればいい。

AI時代には、人間の「選択痕」が残る

生成AIが作ったものには、人間性がない。
そう言われることがある。
一つの生成物だけを見れば、そう感じることもあるだろう。
しかし、人間が何百回もAIを使った履歴を並べたらどうだろう。
何を生成させたのか。
何を選んだのか。
何を捨てたのか。
何を組み合わせたのか。
何を公開したのか。
そこには大量の選択痕が残る。
AIが制作工程を担うほど、逆説的に、
「何を選んだ人なのか」
が重要になるのかもしれない。
そして、その選択を十分な量だけ残したものが、その人自身の肖像になる。

ポートフォリオから、ポートレートへ

これからもポートフォリオは必要だと思う。
仕事を依頼する側からすれば、代表作を数分で確認できるものは便利だからだ。
ただ、その奥にもう一つ別のものが必要になるのかもしれない。
代表作ではなく、蓄積。
技術ではなく、判断。
完成品ではなく、選択の履歴。
何が作れるかではなく、何を作る人なのか。
それを見せるもの。
これからの時代に必要なのは、
ポートフォリオだけではなく、
ポートレートなのかもしれない。
作品を作るたびに、自分自身を描いている。
自画像を描こうとしているわけでもないのに。
気がつけば、その大量の作品の向こう側に、
自分の顔が浮かび上がっている。

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