現代の「面白さ」とはマーケティングである
「面白いゲームなら売れるとは限らないが、売れたゲームはすべからく面白い」
そんな言葉を見かけた。
一見すると、もっともらしい。
売れたのだから、それだけ多くの人を惹きつける何かがあった。だから面白かったのだ、と。
でも、少し考えると妙な話になる。
売れたことから、本当に「面白さ」を測れるのだろうか。
そもそも面白さは指標ではない
ゲームには測定できる数字がたくさんある。
販売本数。
売上。
ウィッシュリスト数。
ストア閲覧数。
購入率。
プレイ時間。
継続率。
レビュー数。
好評率。
では、
「面白さ」は?
そんな数値は存在しない。
Steamで「95%好評」と表示されていても、それは「面白さ95点」ではない。
そのレビュー母集団の95%が肯定的評価を付けた、というだけだ。
しかも肯定した理由もバラバラだ。
戦闘が好きだった。
ストーリーが好きだった。
キャラクターが好きだった。
友達と遊んだから楽しかった。
値段を考えれば満足だった。
アップデート対応が良かった。
それらが全部まとめられて「95%好評」になる。
主観を何万個集めても、作品内部に「面白さ95」というパラメータが発生するわけではない。
みんなが楽しいから面白い、は存在しない
100万人が「楽しい」と言っている。
これは、
100万人が楽しいと評価した
という社会的事実だ。
でも、
だから私も楽しい
とはならない。
同じゲームを遊んでも、
「死ぬほど面白い」
という人もいれば、
「普通だった」
という人もいる。
「何が面白いのか分からなかった」
という人だっている。
ところが大ヒット作品になるほど、
「俺には面白くなかった」
と言っただけで、
「逆張り」
と言われることがある。
もちろん、本当に逆張り目的で言っている人もいるだろう。
しかし外部から、
本当に合わなかった人と、意図的に逆張りしている人をどう区別するのだろう。
多数派と違う評価を「逆張り」として排除してしまえば、
みんな面白いと言っている
↓
面白くないと言う人は逆張り
↓
正当な評価として「面白い」だけが残る
↓
やっぱりこのゲームは面白い
という循環が完成する。
それは面白さの証明ではない。
多数派の評価を維持しているだけだ。
「面白い」と「気になる」と「頭に残る」は違う
ここも一緒にされやすい。
でも、
面白い。
気になる。
頭に残る。
またやりたい。
人に話したい。
買いたい。
これらは全部違う。
ものすごく面白かったのに、翌年にはタイトルすら忘れているゲームもある。
逆に、
「面白かったか?」
と聞かれたら微妙なのに、
10年経っても妙に覚えているゲームもある。
理不尽だった。
意味不明だった。
不気味だった。
変だった。
腹が立った。
それでも頭から離れない。
それは「面白さ」とは別の体験だ。
だからゲームの価値を全部「面白い」という一語に押し込めると、何が起きているのか分からなくなる。
購入前に面白さなんて分からない
さらに単純な問題がある。
ゲームを初めて買う人は、
まだそのゲームを遊んでいない。
なら、
「面白かったから買った」
という因果関係は成立しない。
実際には、
面白そうだった。
話題になっていた。
好きなシリーズだった。
友達が遊んでいた。
実況者が遊んでいた。
レビューが圧倒的に好評だった。
セールだった。
キャラクターが気になった。
そんな情報から購入を決める。
つまり購入時点で売っているのは、
面白さそのものではなく、面白さへの期待
だ。
そして、この期待はかなり操作できる。
「面白そう」はマーケティングによって作られる
同じゲームを二つ用意する。
片方には、
「世界1000万本突破!」
「圧倒的に好評!」
「今年最高のゲーム!」
「有名実況者も絶賛!」
という情報を付ける。
もう片方は、誰も知らない作者が無言で公開する。
中身は完全に同じゲーム。
それでも購入率が完全に同じになるだろうか。
おそらくならない。
人間はゲームのバイナリだけを見て購入しているわけではない。
評判。
知名度。
レビュー。
ブランド。
実況。
ランキング。
受賞歴。
周囲の反応。
何度も目にしたという経験。
そうしたものを全部含めて、
「これは面白そうだ」
と判断する。
なら「面白そう」は作品内部だけから生まれているわけではない。
かなりの部分が市場によって形成されている。
さらにマーケティングは「面白い」にまで侵入する
もっと厄介なのはここだ。
マーケティングは購入前の「面白そう」だけを作るわけではない。
購入後の体験にも影響する。
「圧倒的に好評」
「GOTY受賞」
「世界中が絶賛」
という情報を大量に見てからゲームを始めた人は、完全な白紙状態ではない。
最初から、
「これは面白いゲームである」
という仮説を持ってプレイする。
少し退屈でも、
「まだ面白いところまで行ってないのかな」
と思うかもしれない。
理解できなくても、
「自分がまだ理解できていないだけかもしれない」
と思うかもしれない。
逆に、
「史上最悪のクソゲー」
という評判を聞いてから遊べば、欠点を探しながらプレイすることもある。
つまり事前情報は、
何を体験するかだけではなく、その体験をどう解釈するか
にも影響する。
レビューは「面白さ測定器」ではない
レビューも同じだ。
個々のレビュー本文を何百件も読む人は、それほど多くない。
多くの人が見るのは、
「圧倒的に好評」
「96%好評」
「レビュー3万件」
といった集約結果だ。
一人ひとりは、
「私はこう感じた」
と感想を書いている。
ところがプラットフォームは、それを大量に集めて数値化する。
個人的感想
↓
集計
↓
96%好評
↓
「世間では面白いゲームらしい」
↓
次の人の購入判断
↓
次のレビュー
個人の感想が、
次の購入者に対するマーケティング資産へ変換される。
これはかなり強力な仕組みだ。
しかもレビューを書いた人は広告を作っているつもりすらない。
売れると「面白い」が自己増殖する
すると、こんな循環まで成立する。
マーケティングが成功する。
↓
大量に認知される。
↓
大量に購入される。
↓
レビューが大量に付く。
↓
高評価が可視化される。
↓
「このゲームは面白いらしい」という社会的認識が強くなる。
↓
実況者も扱う。
↓
ランキングに載る。
↓
さらに認知される。
↓
さらに購入される。
↓
さらに「面白いゲーム」という評価が強化される。
そして後から、
「なぜこのゲームは売れたのか?」
と分析する。
「面白かったからです」
となる。
でも、
売れた
↓
面白い証拠
なぜ売れた?
↓
面白かったから
なぜ面白いと分かる?
↓
こんなに売れたから
では循環している。
何も測れていない。
現代の「面白さ」とはマーケティングである
だから、あえて強く言ってみる。
現代の「面白さ」とはマーケティングである。
もちろん、
「私がこのゲームを遊んで楽しい」
という個人的体験までマーケティングそのものだ、と言いたいわけではない。
それは本人の感覚だ。
しかし社会で、
「このゲームは面白いゲームである」
という評価が成立する過程には、
売上。
レビュー。
実況。
SNS。
ランキング。
受賞。
ブランド。
口コミ。
流行。
大量のマーケティング的要素が介入している。
つまり、
個人の面白さは体験である。
しかし、
社会的な「面白い」は市場によって形成された評価である。
そして、その評価を形成し、増幅し、次の購入者へ伝える仕事をマーケティングと呼ぶなら、
「売れているゲームは面白い」
という言葉が指している「面白さ」の正体は、作品そのものの魅力というより、
マーケティングによって形成された社会的評価
なのかもしれない。
売れたことが証明するのは、売れたことだけ
100万本売れた。
それはすごい。
でも、そこから確実に言えることは、
100万本分の購入が成立した
ということだけだ。
100万人が楽しんだとは限らない。
100万人が最後まで遊んだとも限らない。
100万人にとって面白かったとも限らない。
まして、
あなたにとって面白い
ことなど絶対に保証しない。
売上は販売の結果だ。
レビューは評価の集計だ。
話題性は社会的な伝播だ。
面白さは個人の体験だ。
本来、全部違う。
それを全部まとめて、
「面白いゲームだから売れた」
と説明してしまうから、話がおかしくなる。
もしかすると現代で一番強力なマーケティングは、
「買ってください」
と言うことではない。
「これは面白いものです」
という社会的認識そのものを作ることなのかもしれない。
そして、その認識が十分に大きくなれば、
今度は市場の方が勝手に言ってくれる。
「みんな面白いと言っている。だからこれは面白い。」
でも最後に残るのは、もっと単純な話だ。
みんながどう評価したかではない。
売れたかどうかでもない。
自分がやって、どう感じたか。
そこだけは、ランキングにもレビューにも決めてもらう必要はない。
