出口のインディー化が必要ではないかという話

インディーゲームについて考えていると、少し不思議なことに気づく。
制作はかなり独立できるようになった。
ゲームエンジンが普及し、個人でも3Dゲームを作れる。
音楽も作れる。
イラストも作れる。
アセットも買える。
そしてAIが登場して、コード、画像、音楽、文章、企画、デバッグまで、個人で扱える範囲はさらに広がった。
かつてゲーム会社でなければ持てなかった「制作能力」を、個人が持ち始めている。
これは間違いなく、制作のインディー化だと思う。
ところが、完成した瞬間に妙なことが起きる。


出口だけ、昔とあまり変わっていない


ゲームが完成すると、
Steamに登録する。
ウィッシュリストを集める。
Xで宣伝する。
TikTokやYouTubeに動画を出す。
ゲームイベントへ参加する。
配信者に遊んでもらう。
発売日に売上を作る。
レビューを集める。
セールをする。
もちろん、これらが悪いわけではない。
問題は、みんなほとんど同じ出口へ向かっていることだ。
制作方法はこれほど多様化したのに、作品を届ける方法になると急に画一的になる。
インディー業界を見ていると、
制作は独立できているように見える。
しかし、出口はいまだ独立できていない。

そんな状態なのではないかと思う。

出口は制作に逆流する

そして出口の問題は、単なる販売方法の問題ではない。
出口を先に決めると、その要求が制作へ逆流してくる。
Steamで売るなら、商品として成立させなければならない。
値段を付けるなら、それなりのボリュームが欲しくなる。
ストアページに置くなら、スクリーンショットで魅力が伝わる必要がある。
トレーラーを作るなら、短時間で分かるフックが欲しくなる。
レビューされるなら、UIや操作性やチュートリアルも整えたくなる。
すると、
「この作品には何が必要なのか」
ではなく、
「ゲーム商品として何が足りないのか」
を考え始める。
ボスが必要。
ステージ数が必要。
ストーリーが必要。
演出が必要。
プレイ時間が必要。
見栄えが必要。
こうして制作期間が伸びる。
制作期間が伸びれば、回収しなければならない金額も増える。
回収額が増えれば、さらに市場を意識する。
そしてまた商品としての完成度を上げる。
これはかなり強い循環だと思う。

「インディーゲームは難しい」の中身

よく、
「インディーゲーム一本で生活するのは難しい」
と言われる。
それ自体はそうなのだろう。
ただ、もう少し分解して考えてもいいのではないか。
数年間かけて一本のゲームを作る。
完成するまで基本的に売上はない。
完成後にSteamなどで発売する。
発売直後に大きく回収する。
その売上を使って、また数年間次回作を作る。
これは規模こそ違うものの、かなり従来型のゲーム産業に近い。
つまり、
「インディーだから難しい」
だけではなく、
「数年かけて一つの商品を作り、発売時にまとめて回収するビジネスモデルが難しい」
とも言える。
インディーになって制作人数は減った。
しかし、制作と販売の構造そのものは、意外と昔のままなのかもしれない。

プロほど「ちゃんとしたゲーム」を作ってしまう

これはゲーム業界経験者ほど強く出るのかもしれない。
長く商業ゲームを作っていれば、
このくらいのビジュアルは必要。
このくらいのボリュームは必要。
ボスには専用演出が必要。
UIはこの程度まで整えるべき。
商品ならこのくらい完成していなければならない。
そんな基準が身につく。
会社員としては、それはプロの能力だ。
しかし独立すると、その品質基準を維持する費用を、
自分のお金と自分の時間で支払うことになる。
会社から独立しても、「ゲームとはこういうものだ」という業界の常識からは独立していない。
結果として、
規模だけ小さくなった商業ゲーム開発
になってしまうこともある。
もちろん、それをやりたいなら何も問題はない。
ただ、インディーにはもう一つの自由がある。
「それ、本当に必要?」
と言える自由だ。
ボスはいらないかもしれない。
戦闘はいらないかもしれない。
10時間遊べなくてもいいかもしれない。
美麗な3Dモデルもいらないかもしれない。
そもそもクリアという概念すら必要ないかもしれない。
不足しているものを全部埋めるのではなく、
何を欠けたまま作品として成立させるか。
それもインディーの強さなのではないかと思う。

コンセプトから予算を決める

だから「次は予算を増やしてもっと大きな作品を作る」という考え方にも少し違和感がある。
先にあるべきなのは予算ではなく、コンセプトではないだろうか。
例えば、
「音を失った世界を探索して、少しずつ音を取り戻し、最後には世界全体が一つの曲になる」
というゲームを作りたいとする。
ならば必要なものを考える。
探索する空間が必要。
音を集める仕組みが必要。
世界の音が段階的に変化するシステムが必要。
もしボスが音を封印しているなら、ボスも必要になる。
音を解放する行為としてリズムゲームを使うなら、音ゲーにも意味が生まれる。
そうして必要な人、技術、期間を積み上げる。
その結果として予算が500万円になるかもしれないし、5000万円になるかもしれない。
逆に100万円で済むかもしれない。
予算からゲームの規模を決めるのではなく、コンセプトから必要な予算が決まる。
インディーなら、本来こちらの自由を使えるはずだ。

SNSも既存の出口である

そして、Steamだけの問題でもない。
SNSで自力で宣伝していると、なんとなく「自分で届けている」ように感じる。
でも実際には、
制作

X・TikTok・YouTube

インプレッション

フォロワー

ウィッシュリスト

Steam

購入
という構造になっていることが多い。
入口をSNSに、出口をSteamに依存している。
しかもSNSにも最適化がある。
最初の数秒で引きつける。
短時間で理解できる。
一枚の画像で映える。
定期的に投稿する。
反応の良かった表現を繰り返す。
すると今度は、SNSアルゴリズムの要求まで制作へ逆流してくる。
会社を辞めて上司はいなくなったはずなのに、
Steam、X、TikTok、YouTube、レビュー、イベント、配信者。
別の上司が大量に増えている。
少し皮肉な状態だ。

必要なのは「販売」ではなく「届け方」のインディー化かもしれない

ではSteamを使わなければいいのか。
SNSをやめればいいのか。
そういう話でもないと思う。
どちらも便利なのだから使えばいい。
ただし、それらを最終目的地にしない
SNSで作品を知った人が音楽へ行ってもいい。
音楽から短いゲームへ行ってもいい。
ゲームから映像作品へ行ってもいい。
新作から旧作へ戻ってもいい。
旧作を遊んだことで、新しい作品が解放されてもいい。
ゲーム、音楽、映像、文章、ツール。
それぞれが独立した商品なのではなく、互いに次の作品への入口になる。
そうなれば、
作品そのものが流通網になる。
SteamもSNSもYouTubeも、そのネットワークへ入るための入口の一つに過ぎなくなる。
これは「販売のインディー化」というより、
届け方のインディー化
と呼んだ方が近いのかもしれない。

5年間作ってから売る必要はあるのか

出口を疑うと、制作期間についても別の疑問が出てくる。
なぜ5年間作って、完成した日に初めて市場へ出す必要があるのだろう。
小さな作品を公開する。
そこから別の作品へつなぐ。
世界観を少しずつ広げる。
音楽を公開する。
実験的なゲームを出す。
そこから生まれた仕組みを次の作品で再利用する。
新作から過去作品へ人が戻る。
こういう構造なら、「一本のゲームを完成させる」という単位そのものが薄くなる。
失敗した作品も、次への導線や部品として残る。
そして一作に5年かける代わりに、半年ごとに異なるコンセプトを市場へ問いかけることもできる。
AIによって制作能力が10倍になったとして、それをすべて「10倍豪華なゲーム」に変換する必要はない。
試行回数を10倍にすることにも使える。
むしろインディーにとってはこちらの方が大きいのではないかと思う。

制作の次は、出口を独立させる

ゲームエンジンによって、ゲーム制作は会社から解放された。
AIによって、専門技能からも少しずつ解放され始めている。
個人が作れる範囲はこれからさらに広がるだろう。
だからこそ、次に問われるのは制作能力ではないのかもしれない。
作ったものを、どう人へ届けるのか。
制作だけ独立して、完成した瞬間に全員が同じプラットフォーム、同じ宣伝方法、同じ発売モデルへ戻っていく。
それでは、制作能力だけが増えれば増えるほど、同じ出口に作品が殺到することになる。
インディーとは、本来「小さなゲーム会社」という意味ではないはずだ。
会社から独立する。
制作方法から独立する。
そして最終的には、
届け方からも独立する。
制作のインディー化がここまで進んだのなら、次に必要なのは出口のインディー化なのかもしれない。

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