「壮大な構想」という言葉で、未整理を隠していないか

個人開発について見ていると、よくこんな話を聞く。
「構想が壮大すぎて完成しない」
「作りたいものが多すぎる」
「10年かけてもまだ完成しない」
もちろん、本当に巨大な構想を持っている作品もある。
けれど最近、少し違うことを思うようになった。
それ、本当に「壮大」なんだろうか。
単に、まだ整理されていないだけではないだろうか。


機能が多いことと、構想が壮大なことは違う

たとえばゲームを作っている途中で、
「オープンワールドも入れたい」
「クラフトも欲しい」
「経済システムも面白そう」
「ローグライトが流行っている」
「キャラクターとの好感度もあった方がいい」
「最近のゲームならオンライン要素も欲しい」
と、次々に機能を追加していく。
一つ一つを見ると、それほどおかしくない。
実際、それぞれ単体では面白いかもしれない。
そして機能が増えるほど、ゲームは巨大になる。
開発期間も長くなる。
すると、
「自分の構想は壮大だから時間がかかる」
という説明が成立する。
でも逆に考えることもできる。
完成条件を決められなかったから、巨大になり続けているだけではないか。

本当に壮大な構想には根幹がある

規模が大きいこと自体は問題ではない。
重要なのは、なぜ大きくなったのかだ。
たとえば、
「この体験を作りたい」
という根幹がある。
そのためにはAという仕組みが必要になる。
Aを成立させるにはBが必要になる。
さらにBとCを組み合わせることで、中心となる体験がもっと強くなる。
結果として大量のシステムが必要になった。
これは「壮大な構想」と呼んでもいいと思う。
一方で、
Aも面白そう。
Bも流行っている。
Cはユーザーが欲しがっている。
Dは他の人気ゲームに入っている。
Eも作れるようになったから追加したい。
そうやって100個の機能が積み上がったとしても、それは必ずしも壮大ではない。
巨大な未整理バックログかもしれない。

根幹は「追加するため」ではなく「捨てるため」にある

作品の根幹が重要なのは、新しいアイデアを生み出すためだけではない。
むしろ、
何を捨てるか判断するための基準になる。
新しい要素を思いついたとき、
「これは中心となる体験を強くするのか」
「既存システムと相互作用するのか」
「同じ役割を持つ仕組みがすでに存在しないか」
「複雑さを増やす以上に面白さを増やすのか」
「これを削ったら、この作品でなくなるのか」
と考えられる。
根幹が明確なら、
「面白いけど、このゲームには必要ない」
と言える。
これは結構重要だと思う。
面白い機能だから入れるのではない。
この作品を面白くする機能だから入れる。
似ているようで、全然違う。

「アイデア」という言葉も広く使われすぎている

「クラフトを入れたい」
「釣りもできるようにしたい」
「オープンワールドにしたい」
これらを全部「アイデア」と呼ぶことにも、少し違和感がある。
これはどちらかというと、着想や機能要求に近い。
アイデアというなら、
「こういう仕組みにすれば、こういう体験が生まれるのではないか」
という、目的と手段の関係についての仮説まで欲しい。
たとえば、
「釣りが流行っているから入れる」
のと、
「戦闘以外でも生態系へ干渉できる体験を作りたい。その最小の仕組みとして釣りを使う」
では意味が違う。
後者なら、もっと良い方法が見つかったときに釣りを捨てられる。
前者は釣りそのものが目的になっているから捨てにくい。
こうして「やりたい機能」が増え続けると、
目的が増えたのではなく、手段だけが増えていく。
それを「アイデアが多すぎる」と表現してしまっていることもあるのではないか。

これはアルゴリズム最適化とよく似ている

この構造は、SNSでよく見るアルゴリズム最適化にも似ている。
「冒頭1秒にフックを入れよう」
「流行曲を使おう」
「字幕を大きくしよう」
「数秒ごとに画面を切り替えよう」
「最後をループさせよう」
一つ一つには根拠がある。
CTRが上がる。
維持率が上がる。
再生数が伸びる。
だから全部取り入れる。
そして最終的に、
何を表現したかったのか分からない作品ができる。
ゲームでも同じことが起こる。
クラフトは人気。
オープンワールドも人気。
ローグライトも人気。
収集要素も人気。
恋愛要素も人気。
だから全部入れる。
個々の要素は間違っていない。
それでも全体として見ると、互いに衝突しているかもしれない。
これは、
局所最適の積み重ねによる全体最適の崩壊
と言える。

外部評価を参考にすることと、外部評価を目的にすることは違う

流行を取り入れること自体が悪いわけではない。
他作品から学ぶことも必要だと思う。
違いは、自分の根幹を通して変換しているかどうかだ。
根幹があるなら、
流行している要素を見る。

自分の作品では何に使えるか考える。

必要なら形を変えて取り込む。

必要なければ捨てる。
となる。
根幹がなければ、
流行している。

追加する。
になる。
前者なら、既存の要素を使っていても独自の作品になり得る。
後者は、人気要素の集合体になっていく。
独自性とは、誰も見たことのない要素を発明することだけではないのだと思う。
何を採用し、何を変形し、何を捨てたのか。
その判断基準の一貫性そのものが、作品の個性になる。

AIによって、この問題はむしろ大きくなる

以前なら、技術的な制約が自然な取捨選択装置になっていた。
「そんなものは一人では作れない」
「実装に半年かかる」
「技術的に無理」
だから諦める。
ところがAIによって、その壁が急速に低くなっている。
「できます」
「追加できます」
「作り直せます」
と言われる。
すると今度は、
作れないから捨てる
という強制的な選別がなくなる。
だからAI時代では、実装能力とは別の能力が重要になる。
作れるけれど、作らないと決める能力。
AもBもCも実装できる。
だから全部作る。
ではなく、
「Aだけでこの作品は成立する」
「Bは面白いけど冗長」
「Cは別作品で使う」
と判断する。
AIによって制作能力が拡張されるほど、取捨選択能力の差が作品に現れるのかもしれない。

「壮大だから完成しない」のではなく

だから「壮大な構想だから完成しない」という言葉を聞くと、少し疑ってみてもいいと思う。
本当にそうなのか。
もしかすると、
完成しないから壮大になり続けている
のではないか。
自分が何を作りたいのか。
何を体験させたいのか。
何がなくなったら、この作品ではなくなるのか。
その中心が決まっていないから、外から入ってくるものを拒否できない。
流行。
ユーザーの要望。
他作品の成功例。
新しい技術。
AIによって新しく可能になったこと。
それらを一つずつ取り込んでいるうちに、作品は巨大になる。
本人にはそれが「壮大な構想」に見える。
しかし実際には、
周囲に流され続けた結果、自分が最初に作りたかったものを見失っているだけ
ということもあるのではないか。
100個の機能があることが壮大なのではない。
100個の機能が一つの根幹を増幅しているから壮大なのである。
そして、いくらでも作れる時代になったからこそ、
「何を作ったか」以上に、「なぜそれ以外を作らなかったのか」
が、作り手の設計思想を表すようになるのかもしれない。

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