透明性による安全と、見せないことによる安全

「昔はこんな犯罪はなかった」
「昔の方が安全だった」
「最近は問題ばかり起きている」
こういう言葉を聞くことがある。
でも、本当に問題が増えたのだろうか。
もしかすると、昔はただ見えていなかっただけかもしれない。


見えなければ、安全に見える

犯罪が100件起きていても、10件しか認知されなければ、社会から見える犯罪は10件だ。
逆に犯罪が50件しか起きていなくても、透明性が高く45件を認知できれば、社会からは45件の犯罪が見える。
数字だけ比較すれば、
「45件も起きている社会は危険だ」
となる。
しかし実態は逆かもしれない。
前者では100件。
後者では50件。
つまり、
認知された危険と、実際の危険は同じではない。
ここに透明性の難しさがある。

透明になるほど危険に見える

ブロックチェーンは、この問題が非常に分かりやすい。
資産が盗まれれば、その移動が記録される。
別のウォレットへ送っても記録される。
DEXで交換しても記録される。
別のチェーンへ移動しても、追跡できる場合がある。
だから、
「○億円が流出した」
「犯人が資金を移動した」
「別のウォレットへ移した」
という情報が次々に出てくる。
すると、
「クリプトって犯罪だらけじゃないか」
という印象を受ける。
でも少し考えると奇妙だ。
犯罪が見えていること自体が、危険性の証明なのだろうか。
むしろ、
犯罪を観測できる能力が高いから、犯罪がたくさん見えている
可能性もある。

現金は安全なのか

現金で犯罪が行われた場合はどうだろう。
会社のお金を横領する。
現金化する。
誰かに渡す。
何かを買う。
その先を完全に追跡するのは難しい。
だからといって、
現金では犯罪が起きていない
わけではない。
単に見えなくなっただけだ。
ところが人間は、見えないものを認知できない。
認知できない危険は、心理的には存在しないのと近くなる。
すると、
見えないシステム=安全そう
という奇妙な逆転が起こる。

二種類の「安全」がある

ここで「安全」という言葉を二つに分けた方がいい。
一つは、
実際に危険が少ない状態。
もう一つは、
危険を認知しない状態。
この二つはまったく違う。
前者は「安全性」。
後者は、どちらかというと「安心感」だ。
不透明な社会では、危険が存在していても見えない。
だから安心できる。
透明な社会では、小さな問題まで見える。
だから不安になる。
つまり、
透明性は社会を安全にしながら、同時に社会を危険に見せることがある。

だから人は隠す

これは企業の不祥事でも同じだ。
企業ではよく、
「問題が起きたら隠さず報告してください」
と言われる。
しかし報告する側から考えてみる。
問題を報告する。
問題が認知される。
説明を求められる。
上司に怒られる。
評価が下がるかもしれない。
対策業務も増える。
一方、隠した場合はどうだろう。
バレなければ問題は0件である。
倫理的には報告すべきだ。
しかし短期的な損得だけ考えれば、隠した方が得になる場合がある。
つまり、
「隠蔽するな」という倫理と、「隠蔽した方が得」という評価制度が同時に存在している。

問題0件は、本当に優秀なのか

ある会社に二つの部署があったとする。
A部署ではヒヤリハットが100件報告された。
B部署では3件しか報告されなかった。
数字だけ見ればB部署の方が安全そうだ。
でも本当にそうだろうか。
A部署では小さな異常でも報告する文化があるのかもしれない。
B部署では、
「そんなもの報告するな」
という文化なのかもしれない。
そうなると、
問題件数の少なさが、安全性ではなく不透明性を表している
可能性がある。
これはかなり重要だと思う。

透明性を求めながら、透明性を罰している

「隠すな」
「全部報告しろ」
「透明性を高めろ」
社会はそう要求する。
ところが透明にした結果、問題が100件見つかったら、
「なんでこんなに問題があるんだ!」
と怒る。
これでは透明にするメリットがない。
むしろ、
透明になった組織ほど問題の多い組織として評価され、不透明な組織ほど安全な組織として評価される。
そんな評価制度になってしまう。
すると人間は合理的に学習する。
見つけない方がいい。
記録しない方がいい。
報告しない方がいい。
公開しない方がいい。

こうして「安全な組織」が完成する。
もちろん、安全なのは見た目だけだ。

見せないことによる安全

だから世の中には二種類の安全があるのかもしれない。
透明性による安全。
問題を発見する。
記録する。
共有する。
原因を分析する。
次の問題を防ぐ。
そして、
見せないことによる安全。
問題を認知させない。
数字に残さない。
外から見えなくする。
結果として「問題のない状態」を作る。
後者は実際の安全性を高めているわけではない。
安全という認知を作っている。

「知らない方が安全だった」

昔の方が安全だった。
昔はそんな問題はなかった。
そう感じること自体はおかしくない。
知らなければ怖くないからだ。
でも、
知らなかったから安全だったのか。
それとも、
知らなかったから安全だと思えていただけなのか。
ここは分けて考えなければならない。
そして透明性が高まった社会では、これまで隠れていたものまで大量に見えるようになる。
そのとき必要なのは、
「問題が増えた!」
と騒ぐことではなく、
問題そのものが増えたのか、それとも問題を認知する能力が上がったのか
を区別することだと思う。
透明性を求めるなら、透明になったことで見つかった問題を、そのまま透明性の失敗として扱ってはいけない。
そうしなければ、
「透明にしろ」と言いながら、社会の評価システムは「隠せ」と命令する。
そして最後には、
最も問題を隠すのが上手な組織が、最も安全な組織に見える。
それは安全な社会ではない。
ただ、危険が見えない社会である。

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