「お悔やみ申し上げます」が並ぶ違和感──追悼は誰が選んでいるのか

ニュースサイトのコメント欄を見ると、著名人の訃報には必ずと言っていいほど、
「心よりお悔やみ申し上げます。」
というコメントが並ぶ。
もちろん、その中には本心から故人を悼んでいる人もいるだろう。
しかし、私は別の違和感を覚える。


追悼は誰のためなのか

ニュースのコメント欄は、遺族へ直接想いを届ける場所ではない。
それでも多くの人が定型文を書き込む。
第三者として眺めると、
「これは誰に向けた言葉なのだろう。」
そう思ってしまう。
追悼とは本来、その人との関係性の中から生まれるものではないのだろうか。

メディアが選ぶ「偲ばれる死」

さらに考えると、もっと大きな構造が見えてくる。
毎日、多くの人が亡くなっている。
しかし、私たちが追悼するのは、その中でもニュースになった人がほとんどである。
つまり、
社会全体で偲ばれる機会そのものが、メディアによって選別されている。
もちろん、ニュースには紙面や放送時間の制約があり、すべてを報じることはできない。
だから報道の選択自体を否定するつもりはない。
しかし、その結果として、

  • 報じられた死には献花が集まり、

  • 報じられなかった死は社会から見えないまま過ぎていく。

この構造は考える価値がある。

献花は悲しみの量なのか

大規模な献花を見ると、
「多くの人に愛されていた。」
という印象を受ける。
しかし、その人数は本当に故人への想いの強さを表しているのだろうか。
そこには、

  • ニュースでどれだけ報じられたか

  • SNSでどれだけ拡散されたか

  • 会場へ行きやすかったか

といった要素も大きく影響している。
つまり献花の規模は、悲しみだけではなく情報の届き方も反映している。

追悼がニュース価値を強化する

さらに興味深いのは、その循環である。
亡くなる。

ニュースになる。

多くの人が追悼する。

「社会的に大きな出来事だった」という印象がさらに強まる。
追悼そのものが、ニュースの重要性を補強する役割を果たしてしまう。
私はこの循環に違和感を覚える。

本当に偲ぶとは何か

もし純粋に誰かを偲ぶのであれば、
その人が残した言葉や作品、生き方に向き合う時間の方が大切なのではないだろうか。
ニュースを見て定型文を一言書くだけでは、その人自身ではなく、「ニュースという出来事」に反応しているだけにも見えてしまう。
追悼を否定したいわけではない。
問い直したいのは、
私たちは本当にその人を偲んでいるのか。
それとも、
ニュースによって選ばれた死に反応しているだけなのか。
現代では、誰が社会全体から偲ばれるのかさえ、情報の流れに大きく左右される。
だからこそ、追悼という行為そのものも、一度立ち止まって考えてみる価値があるのではないだろうか。

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