AI動画の技術偏重主義にみる違和感
AI動画を見ていると、最近少し違和感がある。
リップシンクの精度が上がった。
人物の一貫性が高くなった。
動きが自然になった。
映画のようなカメラワークができるようになった。
技術の進歩そのものは面白い。
ただ、それを見ているうちに、別の疑問が出てきた。
それ、本当にAIじゃないと表現できなかったのだろうか。
AIは「安く、早く作れる」技術だったはず
AI動画が注目された理由の一つは、従来なら大きなコストが必要だった映像を個人でも作れることだった。
撮影場所を用意する。
出演者を雇う。
カメラマンを呼ぶ。
照明を組む。
CGを作る。
VFXを入れる。
アニメーションを作る。
映像制作には多くの専門技術と人が必要だった。
それをAIによって一人でも作れる。
これはかなり大きな変化だと思う。
ところがクオリティを追い始めると、少し状況が変わってくる。
高性能な生成モデルを使う。
何度も生成する。
人物の一貫性を取る。
破綻したカットを作り直す。
リップシンクを合わせる。
アップスケールする。
細かな違和感を修正する。
一回の生成料金は安くても、それを何十回、何百回と繰り返せば当然コストは増える。
さらに、選別や修正に使った自分の時間も制作コストである。
そうなると、
AIだから安い。
AIだから早い。
とは単純には言えなくなる。
クオリティを競うなら、競合は「他のAI動画」ではない
ここで重要なのは、AI動画の比較対象はAI動画だけではないということだ。
実写を作りたいなら実写撮影がある。
キャラクターを動かしたいなら、Live2Dや3DCG、MMDがある。
派手な映像効果を作りたいならVFXがある。
アニメーションならアニメーターがいる。
モーショングラフィックスなら、それを専門にしている人がいる。
つまりAIで既存の映像表現を再現しようとするなら、本来比較すべきなのは、
「昨日のAIより綺麗になったか」
ではなく、
「同じ予算と時間を既存技術に使った場合より優れているか」
なのだと思う。
例えば、AIで高品質な映像を作るために30万円と100時間を使ったとする。
同じ30万円でカメラマンやアニメーター、VFX制作者に依頼したら何ができただろう。
そこを比較しないまま、
「AIでここまで高品質な映像が作れました」
だけでは、制作技術としての優位性は分からない。
お金を掛ければクオリティが上がるのは、AIに限った話ではない
当然ながら、お金を掛ければ実写のクオリティも上げられる。
良いカメラを使う。
良いスタジオを借りる。
優秀なスタッフを雇う。
何テイクも撮影する。
アニメーションもVFXも同じだ。
だから、
「お金は掛かったけれど、高品質なAI動画ができた」
と言われると、少し不思議な話になる。
お金を掛けて品質を上げること自体が目的なら、AIである必要はないからだ。
AIを使うことで10分の1の費用になった。
AIを使うことで10分の1の期間になった。
一人だから作れなかったものが作れるようになった。
AIでなければ成立しない映像表現ができた。
そういう理由なら非常に分かりやすい。
問題なのは、
高かった。
時間も掛かった。
そして既存映像技術と似たものを作った。
という場合だ。
そこで自然に、
「なぜAIで作ったのだろう」
という疑問が出てくる。
二次元キャラクターを歌わせる場合も同じ
例えば、
「自分のキャラクターを歌わせたい」
という目的があったとする。
AIなら確かにできる。
しかし、これはAI以前から存在していた表現でもある。
MMD、Live2D、3DCG、2Dアニメーションなど、キャラクターを歌わせたり踊らせたりする技術はすでに大量に存在している。
しかも同じIPを長期間使うなら、既存技術には別の強みもある。
一度3Dモデルを作れば、次のMVでも使える。
ゲームにも使える。
配信にも使える。
別の映像にも使える。
初期費用は高くても、資産として再利用できる。
一方でAI動画は、作品を作るたびに生成コストが発生する場合がある。
長期運用すれば、
AI生成を繰り返すより、モデルを一度作った方が安かった
という逆転も起こり得る。
だから、
「AIでキャラクターを歌わせられる」
というだけでは、必ずしもAI固有の優位性にはならない。
実写風の架空人物を歌わせたいなら?
もちろん別のケースもある。
実在しない歌手を作り、その人物自体をIPとしてプロデュースしたい。
同じ顔、同じ声、同じ人格を維持しながら新曲を出す。
MVに出演させる。
広告やゲームにも展開する。
そういう目的なら、人物一貫性やリップシンクへ大量の時間とお金を投入する理由はある。
それは一本のAI動画を作る話ではない。
架空のタレントをプロデュースする事業そのものだからだ。
ただ、そこでまた問いが生まれる。
本当にそれがやりたかったのだろうか。
AI動画を作り始めた。
もっと綺麗にしたくなった。
人物を安定させたくなった。
自然に動かしたくなった。
完璧に歌わせたくなった。
いつの間にか、架空の実写タレントを作っていた。
もし最初からそれが目的なら何も問題はない。
しかし技術を追い続けた結果として目的が後から生まれているなら、
手段と目的が逆転している可能性がある。
AIだからこそできるなら、お金を掛ける意味はある
これはAI動画にお金を掛けるな、という話ではない。
むしろ逆だ。
AIでなければ実現できない表現があり、それを追求するために100時間使う。
それなら面白い。
生成に何十万円使っても、その表現を作るために必要なら意味がある。
あるいは文章、音楽、イラスト、映像、3DCG、ゲームなど、本来は別々の専門家が担当していた領域を一人の作者が横断する。
これもAIだから成立しやすくなった新しい表現だと思う。
重要なのは、
「その追加コストで何を買っているのか」
だ。
既存映像への近似精度を買っているのか。
それとも、新しい表現可能性を買っているのか。
この二つは似ているようで全く違う。
共有技術のクオリティ競争は、最終的に資本競争になる
もう一つ気になることがある。
AI技術は共有される。
高性能な動画生成モデルが公開されれば、他の人も使える。
優れたワークフローが公開されれば、他の人も使える。
リップシンク技術が進歩すれば、やがて誰でも同じ機能を使える。
すると、
「このAI技術を使える」
こと自体は徐々に差別化にならなくなる。
同じ技術を使えるなら、大量に生成できる人が有利になる。
高性能なモデルへ大量に課金できる人が有利になる。
そして映像制作会社も当然AIを使う。
そうなれば、
個人+AI
対
プロ+AI+撮影技術+CG+VFX+編集技術+資本
という競争になる。
共有された技術そのものを競争力にした場合、最後にはかなり普通の資本競争へ近づいていく。
「何が作りたかったの?」
だから最近、AI動画を見ながら一番気になるのは技術ではなくなってきた。
リップシンクが完璧でもいい。
4Kでもいい。
人物が一度も破綻しなくてもいい。
映画のようなカメラワークでもいい。
でも、それらを全部達成したあとに残る問いがある。
何が作りたかったの?
技術デモなら、
「この技術でここまでできることを見せたかった」
で成立する。
しかし作品なら、その先がある。
なぜこの人物なのか。
なぜこの場所なのか。
なぜここで動くのか。
なぜここで歌うのか。
なぜこの映像なのか。
AIは技術的な壁を次々壊している。
だからこそ逆説的に、
技術的にできること自体の価値は、これから下がっていくのかもしれない。
そして最後に残るのは、
何を作るために、その技術を使ったのか。
なのだと思う。
AIだから作れた。
AIだから安く作れた。
AIだから早く作れた。
AIによって一人で複数の表現領域を横断できた。
そこに理由があるなら、AIを使う意味は明確だ。
でも、技術とクオリティだけを追い続けて大量のお金と時間を使い、到達した場所が既存の実写、アニメーション、VFXと同じだったとしたら。
一度だけ考えてみてもいい。
それ、本当にAIじゃないと表現できなかったのだろうか。
