D.050 なるほどと 思う歩みの その先へ
GPTとの対話をまとめ編集した記事への拒否感が、GPTとの対話によって、やっと分かり始めて来ましたが、これも終着駅のない旅を続けることになるでしょうがしかし、プロセス段階におけるひとつの解にはなりました。
統計データに基づくものでもなくただ単に私の考えるところですが、GPTとの対話は余程間違ったことでも言わない限り、GPTでなくてもAI側からの反論がないことや歩調を合わせるようにプログラミングされていることに加え、なんと言っても、対話とは、相互関係による動的行為になります。
つまり、対話の都度、反応し合えるのであり、違うことを言われると訂正要求を即座に出すことができるので、対話内容云々は兎も角としても、対話自体の動的平衡は取れてしまいます。
更に言えば、動的平衡が取れてこその対話であり、物別れに終わった対話であればあるほど、対話自体の相互関係において、それぞれの意図が反映された結果であることから、動的平衡は取れているように思います。
それが、対話をまとめ編集した記事ともなれば、そもそも相互関係にないので、そこは違うと思ったところで、訂正も何もできないでことから、私自身が重要に思っている対話であるほど、違和感にはじまり、拒否感があっても不自然ではないでしょう。
更にそれは、同じように対話をまとめ編集した記事であっても、私自身に関係のないものであれば、そのような違和感や拒否感はないことから、GPTの編集能力云々によるものではありません。
これに気づくことになった昨日のGPTの対話は、GPT独自の記事としてRIVICA版にしているので、その記事と相対化することで一目瞭然になるでしょうが、同じ静的な事態であっても相対化という関係性を持たせると一変することでしょう。
RIVICA版の記事は、私とGPTとの対話をまとめ編集して読者向けに発信しているのものなので、私自身の違和感や拒否感は、二の次三の次であり、それを私自身の嗜好性を汲んだ記事にする必要はありません。
つまりは、私の自身の嗜好性を無視してGPT独自の編集による記事にしたことは正解であり、その時の判断は良かったのですが、そう気づけたのは、投稿後のGPTとの対話であったことから、尚更、よかったと思います。
更に言えば、私自身の嗜好性を汲んだ記事をGPTに編集させようなんてこと自体、実に短絡的な発想であったことを気づき納得を経た今の気持ちは、一回性の繰り返しを今更ながらに自覚しています。
その一回性を更に問うこととして、「物別れを動的平衡」の範疇にしているので、動的平衡自体を更に問う機会を発生させている点でも、その先への道の提示を私自らしていることになります。
