短編小説|女を見せる
《前編》
「今から、車飛ばしてそっちに行くから」
強引な声のあとに残された、無機質な電子音。
スマホを握りしめたまま、小さく息を吐いた。
『家には来ないで。近くの東公園にいる』
文字を残し、厚手のコートを羽織る。
勝手口の冷たい扉を、そっと開けた。
冬の夜の公園は、静寂に包まれていた。
ブランコに腰を降ろし、白く濁る息を眺める。
しばらくして、低い排気音が闇を切り裂いた。
車が止まり、急ぎ足の靴底が凍った砂利を噛む。
「ゆき」
息を切らした彼は、少し離れた場所に立った。
長い沈黙。
まっすぐに、見つめ返される。
「新しい出会いなんて探さないでくれ。友達のままなんて、ふざけるな。俺は、ゆきが好きだ」
いつもは控えめなのに、まっすぐで、偽りのない声。ずっと、ずっと待ち望んでいたはずの言葉。
なのに、胸の奥には、冷たい風が吹いていた。
「ごめんなさい」
まるで他人のもののように、声が平坦に響く。
「私ね、明日、お見合いするの」
「……お見合い?」
ブランコから立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
「私の実家、見たことあるっけ。十五代続く家系の、ひとり娘でさ。お父さんは、家業で会社経営をしていて、社員もたくさんいる。だから、どっちも継いでくれる男性を探しているの」
かさついた砂利を踏みしめる音が、静寂に吸い込まれていく。
「だから、それに相応しい人じゃないといけなくてさ」
彼の瞳の奥で、光が迷うように見えた。
「これは運命。私の人生は、私だけのものじゃないの」
数歩進んで、足を止める。
振り返ると、暗がりの中で目が合った。
「どう、重いでしょ?」
彼の身体が、硬直する。
これは、甘い恋の障害なんかじゃない。
さながら十字架。
好きになってはいけない。
そう思う癖が、いつの間にか根を張っていた。誰かを想うほど、未来を奪う気がして怖かった。
結局、いつもと同じ。
微笑み、背を向けようとした。
その瞬間。
後ろから、力任せに抱きすくめられた。
コート越しにも伝わる、体の厚みと強い力。
「……だったら、俺がぜんぶ継ぐ」
耳元で、かすれた声が響いた。
「実家も会社も働く社員も、ぜんぶ俺が背負う。だからゆき、俺と結婚してくれ」
「えっ……」
有り得ない回答に、思わずたじろぐ。
「そ、そんなの、無理だよ……」
背中を預けたまま、首を振る。
「何も……何もわかってない。一緒にいたら、あなたの仕事も生活も、人生まで奪われてしまうのに……。本当に、わかって言ってるの?」
「……奪われてたまるか」
彼の手が、さらに強く引き寄せる。
「俺が、お前を奪うんだ」
胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
しばらくのあいだ、互いの温もりを確かめるように沈黙が落ちる。
「しんじ……くん……。私、幸せになりたい」
生まれて初めて口にした、自分のための願い。
滲む視界の中で、彼の服を握りしめた。
彼はそっと、無言で抱き締め直す。
凍りついた人生が、その腕の中でゆっくりと溶けていく気がした。
やがて彼は腕を解き、顔を覗き込むと、涙で汚れた頬を温かい手で包み込んだ。
「行こう」
「え……?」
「ご両親に、会いに行こう」
まだ何一つ約束されていない、無謀で切実な夜。
それでも私は、誰かに選ばれる人生じゃなく、誰かを選び返す人生を、生きてみたくなった。
差し出された手を取る。
掌の熱が伝わってきた。
車へ向かい、助手席のドアが開く。
シートに腰を下ろすと、エアコンの温風とともに、柑橘系の薄い芳香剤の匂いがした。
車はエンジンを低く唸らせ、招くのを拒んだ家に、真っ直ぐに向かって走り出した。
遠ざかる街灯の光が、二人の影をどこまでも長く伸ばしていた。
Theme song:小田和正『ラブ・ストーリーは突然に』
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