短編小説|安らかに眠れ
《前編》
目の前に現れたのは、「記憶の美術館」だった。
天に向かってそびえ立つ、縦長の垂直構造。
風化を知らない、純白の外壁。
その重い真鍮の扉を、両手で押し開く。
床は鏡面のように磨き上げられた黒曜石。螺旋を描く白亜の回廊が、幾重にも階層を重ねて果てなく上へと続いていた。
その滑らかな壁面に、息をのむほど美しい絵画の群れが規則正しく並んでいる。
俺は一段ずつ踏みしめながら、ただ絵を見た。
父親に空へと押し上げられ、肩車の上で弾ませる満面の笑み。
母親とのレッスン、不慣れな鍵盤の指先を見つめる苦悶の眼差し。
妹と駆り出した正月の福袋戦争、戦利品を抱えて笑い合った車内。
友人と学園祭の準備に追われた放課後の教室、門限まで語り合った青春の夜。
レイの思い出が、完璧な美で保存されている。
願いと祈りの回廊を進むと、今度は二人が紡いできた時間を映し出すキャンバスが見えた。
桜並木の下で、勇気を振り絞って声を掛けた、出会いの日。
夜空に轟く花火を眺めながら、よそよそしく手を繋いだ、始まりの日。
冷たい雨の降る高架下で、不意に出した缶コーヒーで笑い合った、仲直りの日。
雪の音だけが響く部屋で、震える薬指に指輪を通した、誓いの日。
その思い出の中で、彼女はいつも微笑んでいた。
だが、そのすべてが甘美な幻影であり、現実から目を背けさせるための美しい毒だと思うと、怒りが沸いて立つ。
「いつまで、逃げているんだ……!」
絵画の枠を掴み、壁から容赦なく剥ぎ取った。
ビリビリと裂けるキャンバスの音が、聖なる静寂を引き裂く。
幾重にも重なる螺旋の階層を、脇目も振らずに、一気に駆け上がった。
塔のてっぺん。
最上階のドームへと足を踏み入れたとき――
そこは、厳粛な光が差し込むチャペルのよう。
祭壇の中央に、その異物は鎮座していた。
周囲の美しさを拒絶するかのように、黒く重いカーテンで覆われた、巨大なキャンバス。

逃れられない、圧倒的な存在感。
冷えきった大気が、肌を刺す。
「レイ……起きろ、目を覚ますんだ!」
息が詰まりながらも、震える手で、そのビロードの端を掴み、一気に引き剥がした。
「……これ、は」
露わになったのは、どす黒い絵の具で彩られた、おどろおどろしい恐怖と、底知れぬ不安の具現化だった。
眠りに落ちていく、大切な人々。
夜明けの保証もない、灰色の荒野。
その極限のなかで、彼女がどれほど怯え、孤独にすり減っていのか。
生きていくこと自体が、逃げ場のない処刑台だったという残酷な真実が、まざまざとそこに焼き付けられていた。
「そっ……か」
握り締めていた拳から、スッと力が抜ける。
全身の血が、一気に逆流するような感覚だった。
天を仰いで、ひと息つく。
右手でハッキング装置の出力を反転させると、耳の奥で高周波の回路が冷却されていく。
甘美な白亜のドームが、音もなく霧散した。
脳を焼き切るほどのオーバーロードの果て、荒廃した現実に戻ってきた。
意識が朦朧とする中、ゆっくりと簡易ベッドに歩み寄り、冷えきったその頬をそっと撫でた。
「……レイ」
「ずっと……怖かったんだな」
「独りにさせて……ごめんよ」
「もう……起きろなんて言わない」
「……安らかに、眠れ」
音を立てて、崩れ落ちる世界。
星屑散る夜空の下で、ようやく悟った。
「眠り病」の真実を。
それは、あまりに過酷な現実を生きることに疲れた人類の脳が、自らを守るために選んだ「究極の慈悲」だったのだ。
現実逃避ではなく、神話の森に包まれるような、永久の救済。
俺たちの肉体は、寄り添うように倒れた。
その首筋には、美しい白亜の茨が絡み合う。
「……レイ、おやすみ」
視界が、まどろみに溶けていく。
最期に見えたのは、すべての不安から解放された、最愛の人の安らかな寝顔。
その体をしっかりと抱きしめて、俺たちは永遠の眠りへとついた。
Theme song:ゴスペラーズ(星屑の街)
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