晩夏の蜘蛛と新苦労先生
AI音楽自動作成ソフトに加入してしまった私は、いま次々と新曲を生み出している。詞を書いてAIに放り込み、「ああでもない、こうでもない」と鬼の阿久悠と吉良上野介を兼ねたような私は、AIに無理難題の指示を飛ばす。つくる側のAIも、たまったものではなかろう。おそらく奴らは今頃こう思っているはずだ。
「このジジイ、いい加減にしろよ。最初親切に曲をつけてやったのが間違いだったかもしれん。カネを払うことになった途端にえばり出しやがって。返金したるわ!」
自作の曲作りに夢中になっていた私に、妻から冷たい言葉が飛んできた。
「はやくシャワーを浴びてきて。お風呂掃除したいんだから」
私は心の中で毒づいた。「このババア、なにも分かっていないな。この阿久悠、いや新苦労先生がいま創り出そうとしている芸術の世界が、いかに大変なものかということを……」。
もちろん恐妻家の私が、そんなことを口に出せるはずもない。私はすごすごと言われるままに、浴室へ向かった。
シャワーで体を洗い、髪の毛を洗おうとしたとき、ふと浴室に小さな蜘蛛が一匹いることに気がついた。妻は虫が嫌いなので、私はその蜘蛛にシャワーのお湯をかけて、排水口の中へ流し込んでやろうと思った。
お湯をかけられた蜘蛛は、体を丸め、必死に私のお湯攻撃を凌ごうとした。
「ふふふふふ、ここで見つかってしまったのが運の尽きよ、蜘蛛よ、さらばじゃ!」
お湯攻撃は続いた。しかし蜘蛛はなかなか流れない。身体を丸めながらも、必死で耐えているのである。さらにお湯攻撃を強めようとしたそのとき、私はふとあの話を思い出した。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』だ。
私もすでに六十七歳である。人生も、そうそう先が長いわけではない。ならばこの世のことより、あの世のことを考えた方がいいのではないか。
「そうだ。ここで蜘蛛を助けておけば、たとえ地獄に落ちても、お釈迦様が暇でたいくつなときに、私にこいつの蜘蛛の糸を垂らしてくれるのではないか」
確かあの話のなかでは、天国へ登っていくカンダタが、下から次々に登ってくる地獄の囚人たちに「糸が切れるじゃねえか、バカヤロー」的なことを言って、その瞬間にカンダタの掴んでいた糸がプツリと切れる、ということだったと思う。
ならばその話を知っている私は、そうなった場合、下から登ってくる地獄の囚人たちにこう言えばいいのである。
「いいか、みんな、頑張るんだ! 頑張ってみんなであの虹の向こう側を目指そう!」
お釈迦様の横に親鸞聖人がいれば、「念仏を唱えよう。念仏を唱えながら登れば、きっとみんな天上の世界に行けるぞ!」と。
あるいは日蓮上人がいれば、「さあ、みんなでお題目を唱えよう! 一緒に声を合わせて唱えれば楽に登れるぞ!」と。
そして天上の世界を見上げながら、「ねえ、お釈迦様、そうでしょう?」と上目遣いに見上げれば、「こいつ、なかなかいい奴じゃないか」と思ってくれるのではないか。
そんなことを考えていたら、蜘蛛はやがてお湯攻撃の追撃がないと思ったのか、身体を自由にして動き出し、見事逃げ出していった。
浴室から出た私は、妻に低い声で言った。
「小さな蜘蛛がいた」
妻はすかさず尋ねた。
「殺した?」
私は答えた。
「お前はなんという惨いことを言うのだ。小さな蜘蛛がいったいどんな悪さをするというのだ。もちろん助けてやった。それが心ある人間の情けというものだ」
私の言葉を聞いてポカンとした顔をしていた妻は、さらに畳みかけた。
「じゃあ、外に出してくれた?」
「いや、どこかへ逃げていった」
すると妻は「ダメじゃない」と不機嫌な顔をする。
シャワーを浴びて冷酒を一杯ひっかけながら、私は思った。
もうこの世のことより、あの世のことを考える年齢になったのか、と。
...............これぞまさに、諸行無常、もののあはれを感じる晩夏の新苦労先生であった。

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