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【鉄道史】日本で最初に起きた可能性がある鉄道火災事故 【1月27日 今日は何の日】#221

車輛が
燃えたわけではないが
鉄道が引き起こした
日本で最初の可能性がある
火災事故である。

※本記事で紹介する火災事故は、
 地域資料に基づくものであり、
 全国的な公式記録における
 「日本初の鉄道火災事故」としての
 確定はされていません。
 Otapediaでは、
 地域に伝わる記憶のひとつとして
 記録しています。

※本記事は
 Otapedia公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
 無断転載・改変・商用利用を禁止します。
 © Otapedia


発生日時

1873年1月27日

【1回目の火災】
午後3時半ころ
八幡塚村 (現小竹踏切の付近)

町屋村 (現タイヤ公園の向かい側)
の2カ村において
火災が発生しました。

【2回目の火災】
午後4時半ころ
北蒲田村 (現蒲田1丁目)

の2軒の農家で
火災が発生しました。

なんと
同日異時刻に
2件の火災が発生していました。


対象の列車

【1回目の火災】
八幡塚村と町屋村)
上り
午後3時横浜発の列車で
川崎駅で
下り列車を待ち
3時26分に出発しています。

【2回目の火災】
北蒲田村)
上り
午後4時横浜発の列車。


当時の沿線の様子

被害のあった沿線は
田畑が広がる中に
民家が点在する農村地帯で
北蒲田村160戸
町屋村41戸
八幡塚村236戸
しかありませんでした。


北蒲田村の被害

(現・蒲田一丁目付近)
農家 
吉岡庄五郎宅と 
宮崎角蔵宅の2軒が 
焼失しました。 


町屋村の被害

(現仲六郷1‐36‐10) 
石渡万右衛門宅 
17坪5合が焼失しました。

仲町跨線人道橋より
現仲六郷1-36方面を撮影

八幡塚村の被害

八幡塚村北町 
(現仲六郷3‐21‐1) 
平野平右衛門宅 
61坪5合が焼失しました。 

小竹踏切から
現仲六郷3-21方面を撮影

当日の様子

冬の乾燥期で 
西風が強く吹いており  
現東海道線の東側のみが  
被害に遭っています。 


火災発生当時の様子

ほとんどの住宅が
藁ぶきの屋根で
荷物を持ち出す余裕もなく
あっという間に
燃え広がってしまったようである。

負傷者は
なかったようです。


発生原因

汽車の煙突からの
火の粉が原因
だったと
されています。

誰もそれを、
止めることはできませんでした。


大久保一翁府知事率いる
東京府による働きかけ

被災者の境遇を憂慮し、
鉄道寮に対して
早急な対応と配慮を
求める申し入れ
を行った。
鉄道寮へ申し入れました。


外国人技師による事故の見解

そこで
御雇外国人技師の
意見を聴取しました。
外国では
薪を用いないで
石炭コークス
使用する規則になっており
これに違反して
火災が発生したのならば、
賠償金を支払わなければいけないが
石炭かコークスを使用して
火災が発生したのは
落雷にあったようなもの
不可抗力であると結論付けました。


鉄道頭・井上勝率いる鉄道寮の見解

外国人技師の見解を
踏まえたうえで
鉄道寮として
今後の補償が
前例化することによる影響を
慎重に考慮し、
今回に限り
補償とは異なる名目で
支援を行う方針
を定めました。

これは、
被災者への配慮と
制度上の整合性の両立を図る、
鉄道寮の 
現実的かつ柔軟な判断であった。

それは、
制度の枠内で
できる限りのことを模索した、
一つの折り合いでもあった。

写真:「日本の鉄道の父」と称される井上勝
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

東京府の見解

他の名目
出すのはおかしいと
独自に算出した
補償額を主張した。
また、
線路と家屋の距離についても
規則を作るよう提案しました。


鉄道寮の最終判断

開業以来の庶民感情が
ようやく
改善されつつあることも踏まえ、
今後の制度運用への影響を
慎重に考慮したうえで、
東京府の意向に沿った案での
解決に至りました。

その補償額は
住宅1坪あたり
8円50銭で算出されました。


歴史の中の「誠実な歩み」

当時は、
民法も公布されておらず、
無過失責任という考え方もなく、
国会も、国家賠償法も、
まだ存在していませんでした。

そのような時代において、
被災者の声を受け止め、
制度の枠を越えて折り合いを
模索した交渉の過程は、
近代日本の夜明けにおける、
もう一つの「誠実な歩み」

だったと
言えるのではないでしょうか。


摩擦と共生

折り合いのついた
交渉かと思われましたが、
この後
投石や置石事故が発生し
特に
明治10~11年に多発します。


「新律綱領」の布達

これを受けて
東京府は、
列車妨害に対し
新律綱領を布達。

妨害者の告知を
奨励するとともに
厳重に処罰しました。


事故の歴史的位置づけ

現時点で
日本初の火災事故
として位置づけられる
可能性がある。

さらに、
鉄道による
”金銭的対応”を行った
初期の事例となる
可能性がある。

つまり、
この事故は単なる
「初期の鉄道トラブル」ではなく、
鉄道と社会の関係性が
大きく揺れ動いた
転換点
として捉えることができる。


社会的インパクト

当時の鉄道は、
近代化の象徴であり、
地域の生活を支える
新しいインフラだった。

その鉄道が
事故を起こしたという事実は、
地域住民に深い衝撃を与え、
同時に
「鉄道は安全でなければならない」
という意識を社会に
根づかせる契機となった。


鉄道史に詳しい方へのお願い

鉄道史に詳しい方が
いらっしゃれば、
この事故の位置づけについて
ぜひご意見や検証を
いただければ幸いです。


情報の更新

鉄道に詳しい方に
伺ったところ
『日本国有鉄道百年写真史』
第一巻 711p 
『日本国有鉄道百年写真史』
1972年 発行

の年表に記載があります。
  2026年 4月30日 追記 


鉄道と地域社会のはざまで

穏やかな暮らしの中
突如として現れた鉄道によって
土地を奪われた人々の心中は
決して穏やかではなかったはずである。

そこへ
開業間もない
鉄道による火災事故が起きる。
近隣住民の
鉄道への不信感は
さらに深まったに違いない。

明治10年当時
日本の鉄道は
まだ東京~神戸間に
限られており
投石や置石といった
妨害行為に対して、
東京府が
布達したことなどを考慮しても
この事故の影響があったと
見るのが自然である。

当時の機関車の性能や
安全基準も発展途上にあった。

外国人技師の言う通り
落雷に遭うようなもの
という表現は、
技術的な限界と、
制度の未整備を
象徴していたのかもしれない。

それでも
この事故をきっかけに
鉄道と地域社会のあいだに
新たな意識が芽生えたことも
特筆すべきである。

現在の安全輸送が
行われている背景は 
こうした経験の 
積み重ねによって 
運行されているのである。


最後に

Otapediaは、
法整備が整わない中
粘り強く鉄道寮に
補償を働きかけた
大久保一翁率いる東京府を
「大田区無名の組織・集団」とし、
1月27日
日本初の鉄道火災を記録する
「大田区記憶の日」
として登録します。

大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡
未来へと伝えていきます。

これらの呼称は
Otapedia独自の呼称」であり
大田区公式の認定ではありません」。


出典
 1.『大田区史 下巻』49p 大田区役所
 2.『六郷今昔小誌』六郷地区自治会連合会
 3.『武蔵野 第78巻 第1号 通巻335号』平成十四年二月二十日刊
  (鉄道史研究)『わが国最初の鉄道火災』平野順治

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