なぜ杉山正明は「元朝」ではなく「大元ウルス」と呼ぶのか
こんにちは、高鉄です。
日本のモンゴル史研究者・杉山正明は、元を「元朝」と呼ぶことに強い違和感を示し、「大元ウルス」と呼ぶべきだと主張してきました。この主張は単なる名称の問題ではなく、中国史の枠組みそのもの、さらには近代以降に形成された歴史叙述の前提を問い直す試みでした。本稿では、杉山正明がなぜこのような主張に至ったのかを、事実と研究史に基づいて整理します。
1.従来の「元朝」理解とその問題点

日本や中国で一般的に共有されてきた理解では、元は「宋の後を継いだ中国王朝」であり、「宋・元・明」という王朝交替の一環として叙述されてきました。この見方は、司馬遷以来の正史編纂の伝統や、明・清が自らの正統性を説明するために作り上げた歴史観を、近代史学が継承した結果でもあります。
しかし杉山は、この枠組み自体が後世の政治的・思想的要請によって作られたものであり、13~14世紀の同時代的実態を正確に反映していないと考えました。元を「中国王朝」として理解することは、モンゴル帝国の性格を過度に単純化し、草原的支配構造やユーラシア規模の政治秩序を見えなくしてしまう、というのが杉山の問題意識でした。
2.「ウルス」とは何か

杉山の議論を理解するうえで鍵となるのが、「ウルス(ulus)」という概念です。ウルスはモンゴル語で、「国家」「支配共同体」「政治的単位」を意味しますが、それは中国的な王朝や近代国家とは異なる性格を持ちます。
モンゴル帝国では、チンギス・カン一族が世界を分有し、それぞれが「ウルス」として統治しました。重要なのは、ウルスが民族国家でも領域国家でもなく、王族家産的な支配単位であった点です。支配の正統性は「中華」や「天命」ではなく、チンギス・カン家の血統と遊牧的政治文化に根ざしていました。
3.「大元ウルス」という呼称の意味
フビライが1271年に定めた正式国号は「大元」でしたが、杉山はこれを「元朝」と短絡的に理解すべきではないと主張します。元は、
チャガタイ・ウルス
キプチャク・ウルス
イルハン朝
と並ぶ、モンゴル帝国諸ウルスの一つにすぎませんでした。
つまり、「大元」とは「中国王朝名」ではなく、モンゴル帝国の一構成要素としてのウルス名だった、という理解です。「大元ウルス」と呼ぶことで、元が中国の内部論理ではなく、ユーラシア規模の帝国秩序の中に位置づけられていたことが明確になります。
4.支配構造から見た元の実態
杉山が「王朝」という語を避けた理由の一つが、元の支配構造にあります。元の社会は、
モンゴル人
色目人
漢人
南人
という明確な身分的序列に基づいて統治されていました。これは儒教的官僚制国家とは大きく異なり、モンゴル支配層が被支配民を厳格に区分する、典型的な征服帝国の構造です。
また、皇位継承や政治決定の最終原理も、漢族王朝の伝統ではなく、モンゴル的慣習に基づいていました。これらの点から見ても、元を「中国王朝」として理解するのは、実態を歪めると杉山は考えました。
5.中国史観・現代政治との距離
杉山の「大元ウルス」論は、現代中国の歴史叙述とも緊張関係にあります。中国では、元・清を含めた王朝史を強調することで、「中国は歴史的に多民族国家である」という国家像が語られてきました。
しかし杉山は、こうした現代的ナラティブと距離を取り、元をあくまでモンゴル帝国史の文脈で理解すべきだと主張しました。この点で彼の議論は、歴史研究の脱ナショナリズム化を強く意識したものでもあります。
6.評価と現在の到達点
杉山正明の主張は、モンゴル史・ユーラシア史研究に大きな影響を与えました。一方で、中国的制度が実際に機能していた側面や、元後期の「中国化」を軽視しすぎているという批判も存在します。
現在の研究では、
元は「中国王朝」であると同時に、「モンゴル・ウルス」でもあった
とする折衷的理解が有力です。それでも、「大元ウルス」という呼称が投げかけた問題提起――歴史をどの枠組みで語るのかという問い――は、今なお重要な意味を持っています。
おわりに
杉山正明が「大元ウルス」という呼称にこだわった理由は、元の本質を正確に捉えるためであり、同時に中国王朝史観という強固な枠組みを相対化するためでした。それは名称論争ではなく、歴史の見方そのものを問い直す学術的挑戦だったと言えるでしょう。
参考文献
杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会
杉山正明『遊牧民から見た世界史』日本経済新聞出版社
村上正二『元朝史研究』東京大学出版会
宮崎市定『東洋史概論』岩波書店
森安孝夫『モンゴル帝国の興亡』講談社学術文庫
主題上の肖像画、フビライ・カン
杉山正明
https://www.athome-academy.jp/archive/history/0000000250_all.html
チンギス・カン
