有休の水族館
「有休、とってください」
上司にそう言われた。少し不機嫌そうに。
五日取らなければいけないらしい。
そういえば、休みなんてまったくとっていない。
仕方なく平日に有休を入れた。
予定はない。
友達は仕事。
彼氏はいない。
実家に帰るほどでもない。
結局、私は一人で近くの水族館へ行くことにした。
平日の水族館は驚くほど静かだった。
小さな子ども連れと若いカップルが少しいるくらい。
私は大きな水槽の前のベンチに座った。
青い光が揺れる。
魚たちがゆっくり泳いでいる。
こういう時間も悪くない。
そう思った。
その時だった。
少し離れたベンチに一人の男性が座った。
白いシャツ。
黒いリュック。
三十代くらいだろうか。
ただぼんやり水槽を見ている。
それだけだった。
翌週。
「この日は忙しくないから」
そんな理由で私の有休は決められた。
特に行く場所もなく、私は再び水族館へ向かった。
そして驚いた。
同じ場所。
同じベンチ。
同じ男性が座っていた。
偶然だろうと思った。
でも少しだけ気になった。
翌々週。
また水族館。
そしてまた彼がいた。
さすがに偶然じゃない。
気になって仕方なかった。
彼は誰とも話さない。
スマホも見ない。
ただずっと水槽を眺めていた。
それだけ。
私はついに声をかけた。
「……あの、いつもいますよね」
男性は少し驚いた顔をした。
「あ」
どうやら向こうも気づいていたらしい。
「あなたも」
思わず笑ってしまう。
「有休消化です」
「同じです」
その言葉に、また笑ってしまった。
それから少しだけ話した。
彼は別の会社員だった。
忙しくない水曜日が、有休を取りやすいらしい。
「なんでここなんですか?」
私が聞く。
すると彼は水槽へ目を向けた。
「妻が好きだったので」
私は言葉を失った。
「去年、亡くなったんです」
静かな声だった。
悲しそうというより。
長い時間をかけて受け入れた人の声。
「ここによく来てたんですよ。一緒に」
魚を見ながら話す。
その横顔は穏やかだった。
そのあとたくさん話した。
仕事の愚痴だったり。
好きな食べ物だったり。
本当に他愛もない話。
不思議と心地よかった。
私は五日の有休を使い切った。
義務だった有休消化は終わり。
もう平日に休む理由はない。
私は彼に言った。
「有休五日使っちゃいました」
「そうですか」
彼は少しだけ残念そうに笑った。
私も同じ気持ちだった。
しばらく二人で水槽を眺める。
魚たちは何事もないように泳いでいる。
その姿を見ていると、不思議と時間がゆっくり流れる気がした。
「じゃあ」
私は立ち上がった。
「またどこかで」
そう言って歩き出そうとした時だった。
「あの」
振り返る。
彼は少しだけ言いにくそうな顔をしていた。
そして。
「金曜日の午後も、意外と空いてますよ」
一瞬意味がわからなかった。
でもすぐに気づく。
思わず笑ってしまった。
「そうなんですか」
「らしいです」
彼も少し笑う。
私は頷いた。
「覚えておきます」
「ぜひ」
それだけだった。
でも。
水槽の青い光は、最初にここへ来た日より少しだけ明るく見えた。
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