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【黒澤乃愛は名乗らない】8話「スカイライン」

 大晦日の夜、テレビをつけたまま、洗い物をしていた。
 特別枠で、マオが出た。追悼の枠だと、事前に聞いていた。夜行列車を、マオが披露する。伴奏はグランドピアノ一台で、弾いているのは、名前の知られたピアニストだった。
 マオは、マイクスタンドの前に立つ。立って、歌わなかった。ソロで歌が入るはずのところは、マイクスタンドが空のまま、ピアノだけが鳴った。声のない小節を、ピアノが越えていく。手を拭いて、椅子に座って、最後まで観た。
 番組の別の場面に、マオ以外にも、知った顔があった。それについては、書かない。
 手元でスマホが鳴った。かほみからだった。


 ――見てますか
 ――見てる

 しばらく、返事をしなかった。画面の中では、歌のない夜行列車が、もう終わりかけていた。

 ――どうですか
 ――マオが立ってる
 ――そうですね
 ――それだけでいい

 スマホを伏せて、テレビを消した。四年前のことを、少し思い出した。

   ※ ※ ※

 二〇二二年に、良い話が来た。
 白川結衣を、LUMINAに入れる。四人体制にして、白川の個人事務所に三人が所属して、メジャーを目指す。持っていくのは、ノアの曲だ。話を持ってきたのは、白川の周りにいる人たちで、段取りは、その人たちが組んだ。
 悪い話には、聞こえなかった。元アイドルの知名度、事務所の後ろ盾、これまで自分たちだけでは届かなかった場所。三人だけのバンドで、私たちがやれることは、そろそろ頭が見えかけていた。ライブハウスの箱の大きさも、動員も、ここ一年、ほとんど変わっていない。次の一段が、自力では見つからない。そこへ、事務所と名前を持った人が、階段を差し出してきた。
 タケルもケンジも、乗り気だった。二人にとって、メジャーは、ずっと前からの夢だ。私の曲で、そこへ行ける。断る理由を、探すほうが難しい。私も、最初は、断らなかった。

   ※ ※ ※

 白川と会ったのは、一度だけだ。
 打ち合わせの席に、白川が顔を出した。テレビで見るより、声の低い人だった。話すテンポが、ゆっくりで、こちらの言葉を最後まで待ってから、返してくる。ノアさんの曲、ずっと聴いていました、と言った。特にこの曲の、このメロディの運び方が好きです、と、私の曲の一節を、正確に口ずさむ。音を外さない人だった。

 嬉しそうだった。営業なのか、本当なのかは、分からない。分けて考える意味も、そのときは、なかった。よろしくお願いします、とだけ言って、白川は席を立つ。それが、白川と話した、最初で最後になる。

   ※ ※ ※

 その後、白川と会うことは、なかった。
 手続きは、周りの人たちのあいだで進む。私のところには、決まったことだけが、後から降りてくる。ここはこうなりました、これにサインを、次はこの日程で。誰かと誰かが話して、決まって、それが私に届くころには、もう覆せない形になっている。書類が増えて、押す印鑑が増える。会議に呼ばれる回数は、逆に、減っていった。
 あるとき、話は曲の権利のことになっていた。ノアの書いた曲を、白川の名義で世に出す。そのほうが売れる、という説明は、筋が通っているように聞こえる。誰も、はっきりした嘘は言わない。ひとつずつの理屈は、どれも通っている。通った理屈を順番に積んでいくと、いつのまにか、私だけが外にいた。

 編成の話になったとき、私の名前は、もう入っていなかった。理由は、ギターだ。腱鞘炎で、ライブで安定して弾けない。ステージに立てないメンバーは、四人体制の外に置く。書面の上では、そういう整理だった。ギターが弾けない、というのは、外す理由の顔として、よくできている。
 タケルとケンジは、何も言わなかった。反対も、賛成も、口にしない。二人の夢は、もうすぐ叶うところまで来ていた。私は、その夢の途中に、立っていた。

   ※ ※ ※

 示談の席は、事務的だった。
 曲の権利を手放す。この件について、外で話さない。紙にはそう書いてあって、私は署名した。ペンの効きが悪くて、二度なぞった欄が、一つあった。金額のことは、書かない。食うにも、呑むにも、住むにも、しばらく困らない程度ではある。まともな対価だったか、と訊かれれば、答えは別にある。
 席のどこかで、バンド内の男女のことが、一度、話に出た。若い子たちだから、いろいろあったんでしょう、という言い方だ。誰が誰を、とは言わない。ただ、そういう話がある、という一点だけが、その場の空気を、私の側に不利なほうへ、少しだけ傾ける。抗う材料は、こちらにはない。私は、その話には触れずに、次の欄に判を押した。
 帰りに、コンビニでストロングZEROを買った。その日から、冷蔵庫にそれを切らさなくなった。飲むと、耳が濁って、細かい音が聞こえなくなる。そのころは、それでよかった。

   ※ ※ ※


 数か月して、スーパーの有線で、その曲を聴いた。
 買い物かごを提げて、鮮魚のケースの前にいた。画面はどこにもない。耳だけで、分かった。自分のメロディだ。イントロの二小節で、指が勝手に動いた。サビに入って、歌詞が、違う。声が明るくて、テンポが、少し速い。かごの中の、半額のシールが貼られたパックを、しばらく見ていた。
 家に帰って、原曲のデータを開く。並べてみる。
 スカイラインは、こうだった。


 夜を越えて、君と笑いたい
 スカイラインの 向こう側まで
 遠回りした 足跡の数だけ
 虹は綺麗に 架かるはずだから
 剥き出しの希望 響かせ合おう!

 私の書いた原曲は、こうだ。

 

 夜を殺して、一人で消えたい
 コンクリートの底で 息を止めて
 意味のない 光なんていらない
 剥き出しの鼓動だけ 鳴り響いて

 同じ位置に、同じ音数で、意味だけが裏返っていた。越えると、殺す。笑いたいと、消えたい。向こう側と、底。希望と、鼓動。一行ずつ、丁寧に反対を当ててある。手をかけた仕事だ。
 ブリッジまで来て、手が止まった。

 「ここにいるよ」と 叫ぶ代わりに
 僕は明日へ タクトを振るよ
 震える指先 掴み取ったのは
 眩しすぎるくらいの 真実の光

 私の原曲は、こうだ。

 「ここにいるよ」と 叫ぶ代わりに
 私は弦を 指で弾くの
 震える指先が 描き出したのは
 救いようのない 真実の青

 一行目だけが、原型のまま残っていた。ここにいるよ、と叫ぶ代わりに。そこだけ、書き換えられずに、スカイラインの中に埋まっている。
 画面を、しばらく見ていた。それから、両方のファイルを閉じた。
 何もしなかった。

   ※ ※ ※

 テレビは、消してある。
 部屋は静かで、冷蔵庫のモーターだけが、低く鳴っている。伏せたスマホは、もう光らない。マオが立っていた、それだけの夜が、終わろうとしている。
 立ち上がって、冷蔵庫を開けた。いちばん下の段に、冷えたのが並んでいる。一本取って、栓を開けた。年が変わるまで、あと少しだ。



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