FIFA W杯が死んだ日。
◼︎熱狂の余韻を踏みにじる「目に見える特権」
私たちはつい数日前、日本代表の魂を揺さぶる激闘に涙し、言葉にできない感動に包まれていたはずだった。強豪を相手にピッチ上で愚直なまでにフェアプレーを貫き、勝利をもぎ取っていく姿。そこには、ルールのもとではどんな国も等しく平等であるという神聖な約束事があったはずだった。
しかし、その熱狂の余韻は、不条理なニュースによって一瞬にして冷ややかな虚無感へと変えられてしまった。
アメリカ代表FWバログンに対する、FIFAの「出場停止処分の執行猶予」という前代未聞の超法規的措置。危険な踏みつけ行為による一発退場、その誰もが従ってきた「次戦自動出場停止処分」という鉄則が、決勝トーナメントを前にはじめて引っくり返されたのだ。
その舞台裏で、トランプ大統領がFIFA会長へ直接電話を入れ、裏で圧力をかけていた事実を当事者すらも隠そうとしない。世界中の人々の祭典であったワールドカップが、権力者の指先一つで書き換えられる「まがい物」だったのではないかという底知れない興醒めが、世界を覆っている。
◼︎「ファウルの悪質さ」を論じるのは完全に的外れである
この問題を巡り、「あのレッドカードは本当に妥当だったのか」「不可抗力のアクシデントだった」という、プレー自体の是非に関する議論が交わされている。しかし、そこを論点にすること自体が、すでにFIFAと米国政府の術中にはまっている。ファウルの度合いなど、今回の本質においては完全に論点が違う。
焦点はプレーの中身ではなく、「一度下された判定のプロセスが、外圧によって事後的にねじ曲げられた」という統治の崩壊だ。
これまでW杯の歴史の中で、理不尽な誤審や気の毒なレッドカードで大会を去った選手など星の数ほどいる。それでも「ルールの絶対性」があるからこそ、競技の秩序は保たれてきた。それを裏で権力が動いた直後に「アクシデントだから」と特例を適用する。このプロセスの私物化こそが絶望の核心であり、ファウルの正当性をどれだけ検証したところで、政治介入の免罪符にはなり得ない。
◼︎「隠す気さえない」という新たな絶望のフェーズ
振り返れば、FIFAは常に「金と政治」の暗雲に包まれてきた。2015年の幹部大量逮捕劇に代表されるように、W杯を巡る裏金問題はこのスポーツの黒歴史である。しかし、かつての汚職は、どれほど巨額であっても、少なくとも「後ろ暗い犯罪」として闇に隠されていた。ルールを破っている自覚があるからこそ、必死に隠蔽しようとしたのだ。
今回の事件が過去のどの裏金問題よりもタチが悪く、絶望的である理由は、まさに「隠す気さえさらさらない」という点にある。
トランプ大統領は記者会見で「見直しを求めただけだ」と堂々と介入を認め、自身のSNSで「大いなる不公正を覆した!」と自画自賛している。FIFAのインファンティーノ会長は、一国の元首からの直談判に応じて、64年ぶりとなるウルトラCを演じてみせた。かつての汚職が「ピッチの外の利権争い」であったのに対し、今回の暴挙はピッチの上の競技そのものを権力でねじ込む直接的な侵略である。
◼︎イランが証明していた、もう一つの冷酷なシナリオ
この「大国への忖度」という闇が白日の下に晒された以上、私たちはもう、過去の不可解な歴史をも純粋なスポーツとして片付けることはできなくなった。その最たる例が、今大会におけるイラン代表を巡る軌跡である。
今大会、イランがピッチ上で不自然なまでの不利な判定に泣き、敗退を余儀なくされた際、私たちは「これは不運だ」「ピッチに政治はない」と信じようとしていた。しかし、大国の都合に合わせてルールを書き換えるFIFAの正体を見てしまった今、あの敗退への疑念は、冷酷な「確信」へと変わらざるを得ない。
地政学的なリスク、対立するアメリカの意向、そして興行面で都合の悪い存在を排除しようとする見えない力。あからさまなアメリカへの忖度によって、特定の国が最初から不当な坂道を登らされていたのだと、今ならはっきりと分かる。過去に踏みにじられてきた国々の涙は、すべて政治的にデザインされた結果だったと解釈するのが、むしろ自然になってしまった。
◼︎「FIFA W杯の死」と、私たちが向き合うべき虚無
決勝トーナメントのアメリカ対ベルギー戦。バログンが何食わぬ顔でピッチに立ち、ゴールを揺らす瞬間が訪れたとしても、世界中のファンはそれを純粋に称えることはできない。そこにあるのは、鍛錬の成果ではなく「政治がデザインした勝敗のシナリオ」だからだ。
ゲームが始まる前から、すでに勝負の前提となる公平性は死んでいる。「W杯は死んだ」という言葉は、決して大袈裟な感情論ではない。ルールが権力によって都合よく書き換えられるゲームを、一体誰が純粋なドラマとして応援できるのだろうか。
日本代表がくれた感動から、わずか数日で叩き落とされたこの深い「興醒め」。私たちは今、スポーツがその魂を権力に売り渡した歴史的な瞬間を目撃しているのかもしれない。
